システム制御情報学会誌「システム/制御/情報」

99年8月号    読者の広場より

書評:円周率を計算した男

               キヤノン(株) 涌井 伸二

 

  頼まれてもいない書評は厚顔でしか書けない.表題に

魅せられて購入し,そして一気に読ませてくれたいくつ

かの作品を紹介したい.

  和算といえば関孝和で没後算聖と呼ばれた.この程度

の知識は常識で,歴史にうん蓄を傾ける人なら高足建部

賢弘(たけべかたひろ)の名前が挙げられよう.しかし,

日本発のオリジナルな科学として発展した和算の中味を

知る人は少ないのではなかろうか.この発展の歴史を人

の営みの中に織り込み,これを再生することに成功した

短編集である.全六編を収め歴史文学賞受賞作品を冠の

名称にする.以下,その中の三編を紹介しよう.

  まず,「円周率を計算した男」では,関の道場で修行す

る建部の生き様を綴る.彼は,弟子に指導をせず,しか

も美しき算学を出世の道具にしていると曲解して師に反

発する.論争を挑むが,そこで円に関する法則(円理)

をきわめよと勧められる.非凡なオ能を師は見抜いてい

た.何年にもわたって,建部は教えに忠実にアイディア

を使った解法を試みる.しかし,幼少の頃に神童と言わ

れた自分の才は限界,日は霞むし体力も衰えた.そこで,

最後の一戦.昼夜兼行,一転して力ずくの計算を開始す

る.計算結果を眺めて公式をひねり出す戦略である.遂

には,自乗の公式を見いだす.円理完成への苦闘の中に,

突き放すようで愛情がありそれを両者が認めあうという

師と弟子の交流がある.ここに,久しく忘れてしまった

一途な感動が呼び覚まされる.

  つぎに,御普請方鈴木家に迎えられた養子安明と同役

神谷定令の争いを軸に,その脇に楚々とした定令の妻小

枝が登場する.そんな話が「算子(さんし)塚」である.

安明は役所の仕事はそこそこでも算術修行には熱心であ

る.定令の師匠藤田の「精要算法(せいようさんぽう)」

を一晩で読み切り,同時に批判をもまとめてしまう腕前

だ.そして,算術の発展に真摯であるが故に,著者の藤

田を前に美しさに欠けるとの非難を口にする.また,沸

き立つ才能は,難問の解法を絵馬にした算額の神社奉納

を決意させる.今ふうに解釈すれば,掲載に当って査読

なしの論文誌投稿となろう.厳しい査読は掲載後にやっ

てきた.藤田に仕返しの非難を受ける.ここから,友人

定令と決別するとともに藤田を頂点とする関流との対決

が始まる.この時期,田沼意次失脚に伴う粛正に巻き込

まれ安明は無役ともなる.やがて,秘密主義の関流を憎

む安明は最上流を立てる。執拗に,関流を代表してしまっ

た定令との間で算術の解法を巡る非難応酬合戦は行われ

ている.おびただしい書籍を交互に出版することによっ

て.じつは,定令の行動には妻小枝に対する狂おしいま

での愛情が隠されていた.安明の算術の才と小枝を魅惑

させているに違いない彼の男としての香気に嫉妬してい

たこと,だから粛正のとき安明を売ったことが本人によっ

て鳴咽のように吐露される.パワフルな男の行動の裏に

は,案外こんな愛憎が潜むものかもしれない.このよう

な人間の性を知悉し,哀惜をもって明らにしたところが

心憎い.そして,人という代物を知っている,というと

ころに不思議な安堵感を覚える.

  さいごに,「やぶつばきの降り敷く」は数学道場主長谷

川寛の養子と迎えられる佐藤秋三郎の下僕三吉の物語で

ある.百姓の出自である彼は口減らしのため下僕となっ

た.しかし,身分と無関係に算学の指導を受けられる方

針のお陰で,下働きをしつつ隠題免許を授けられる。江

戸出府の理由はもう一つ.問引きを逃れた自分の代わり

に女衒(ぜげん)に売られた姉を探すためである.そこ

に付け入られ,門外不出の数理表を又貸しする.相手は

道場の同門元山(もとやま)であり,彼が傾倒する関流

宗統(そうとう)内田の塾に渡されていた.伊豆沿岸測

量の対抗相手である.数理表を入手した塾は高精度の測

量を短時間で終え名を馳せる.数理表返却と引き替えに,

姉はすえた匂いのする岡場所に居ると教えられ,それら

しき女には会えた.しかし,姉とは認めない.法外な金

の無心によって近づかないようにし姿を隠す.やがて,蛮

社の獄による洋学者弾圧で,元山と内田らは行方をくら

ます.ここに至って,三吉は兄さと慕う秋三郎が道場の

跡目になれないようにすると元山から脅されていたと告

げる.破門を覚悟した.しかし,道場を救ったとして許

され,遊歴算家としての心機一転の旅立ちを命じられる.

その日,三吉の世話をやいてきた下働きなみと共に師匠

の墓前に香を手向ける.なみは山門まで無言で付き従っ

た.そこで別れである.しかし,男の未練で「三吉は振

り返った」.この瞬閲,なみの思慕は堰を切って一気に

溢れでて「こちらをじっと見つめていたなみは,右手の

柄杓(ひしゃく)と左手の水桶を同時に手放すと,弾か

れたようにこちらへ駆けてきた」.この瞬間,この女と

一緒に生きたい,と思ったに違いない。だから,「三吉は,

ゆっくりと両手を広げ,飛び込んでくる女を抱きとめた」

のである.和算の求道者を目指そうとした三吉が,生身

の私とぐっと一体になった瞬間であり暖かい余韻を残す.

そして,延宝から天宝年間にわたり実用を離れて独自の

発展を遂げてきた和算衰退の雰囲気も淡く表現している

のである。

  意外な素材を使い豊かな創造力でその発展の中でうご

めいた人間を描きだしている.題材を和算に求めている

が,むしろ,揺らぐ心の描写に秀でた作品に仕上がって

いる.鳴海風の二作目が早く上梓されることを願う.この

作家の創造力が続く限り私の辞書に退屈の二字はない.

(鳴海 注:技術論文集なので、点や丸はカンマ、ピリオド

       になっています。

       掲載を快く了解していただいた涌井さんに

       感謝いたします)