決して異常なんか  じゃない
               鳴海 風 

 昨年の三月十一日、私は、東京で出版社と打ち合わせ中に被災し、帰宅難民五首万人の一人になった。実は、その日の朝まで私は福島県にいた。九十二歳でなお一人暮らしをしている、しかし重い認知症の母の介護のため、私は愛知県から出かけていたのだ。
 今やありふれた日常風景になりつつある介護シーンも、今回の震災の影響を受けた。認知症の母にはまったく関係なかった原発による風評被害は、幻聴となって母の思考回路に侵入し、母にタクシーを呼んで警察署まで行かせてしまったのだ。 
「ピカドン (原発事故) を何とかしてください!」  
 母は警察に訴えたが、とりあげてくれるはずもない。  
 これ以外にも幻聴は母を支配し、異常な言動に駆り立てていた。肉体も衰弱し、私の通いによる介護やヘルパーの訪問だけでは、ケアは不十分になっていた。  
 昨年末の外来の最終日に、主治医と相談し、異常な言動を理由に母を入院させたが、母を納得させてのことではなかった。  「これが親に対してすることか!」  
 母の形相が脳裏に焼き付いてはなれない。  
 その日から私自身も精神的に苦しみ出した。もっと適切な対応があったのではないか。いや、何もしない方がよかったのかもしれない。……?  
 生老病死とはいうけれど、老いが進んだ姿は、生まれたばかりの赤ん坊に似ている。とすれば、認知症は決して異常ではなく、人生の普通にたどる道の果てにあるのではないか。生老病死ではなく生老病生死。つまり人間は誰もが再び生まれたときの姿に戻っていくのだと思えてきた。