駒場に吹く風 

              鳴海 風

 井の頭線「駒場東大前」で降りると、文字通り目の前は東大で、受験戦争を味わってきた私は、ここが東大というだけで中に入るのに足がすくむ。しかし、今日の私は、少しだけ誇らしい気分で、ここを訪れている。なぜかと言うと、ここは間違いなく父が学生時代を過ごした場所だからだ。

いかめしい正門は、かつて東京帝国大学農学部の正門だった。

 今年二月、心不全で父が逝った。八十九歳だった。幸い重い病気ではなかった。寝たきりにもなってはいなかった。しかし、昨年の猛暑で熱中症になり、以来足腰が弱っていて外出がほとんどできず、週一回医師の往診を受けていた。ヘルパーの介護を必要とするようになるのが先か、それとも病気になって入院するのが先か、家族はそんな覚悟をしていた矢先だった。朝起きてシャワーを浴び、新しい下着に着替えて、髭を剃っている最中に倒れたらしい。安らかな死に顔だったのが、家族へ残した父の最後の贈り物だった。

 生前の父とは、父の青春時代について、まったく会話をしたことがない。父の来し方だけでなく、現在も未来もほとんど語り合うことはなかった。今、私にも高二の長男がいて、なぜ何も話そうとしないのかと不思議に思うが、振り返れば、父にとっての私も同じ話さない息子だったのだから、これは遺伝か報いなのだろう。とにかく、私は親不孝な息子で、今頃、父の経歴を調べ、訪ね歩き出している。

 六月初め、土曜日の午後のキャンパスは、やや蒸し暑く、人影はまばらでカラスの声がやかましかった。

ゴシック風の建物で、国の登録文化財にも指定されている、時計台のある一号館(本館)を左に見ながら、私はキャンパスを反時計回りに一周し始めた。

 苦学生だった父が入学したのは、東京帝国大学農学部附属農業教員養成所。昭和十年のことである。当時の農学部には、本科、実科、養成所、見習生合わせて四百人ほどの学生が学んでいた。入学直後、農学部は本郷に移転することになったが、養成所だけは東京農業教育専門学校となって駒場に残った。明治以来駒場は農業教育発祥の地という思いがあって、農学部のすべてが移転しなかったのだという。卒業したとき、父の最終学歴は、東京農業教育専門学校(後の東京教育大学農学部)となった。

 父が学んでいた当時の駒場には田畑が広がっていて、おそらく農業教育には格好の土地だったろう。その面影が残っていないか、私はキャンパスの外周に沿って一周することで確かめたかった。今日は入館できないが、駒場キャンパスの史料をたくさん保存していると思われる駒場図書館の位置を確かめて、さらに細い道を進んで行ったら、山手通りに出てしまった。そこには現代の東京が、高層建築の威圧と間断なく疾走する車列の喧騒を、恥ずかしげもなく誇示していて、昭和十年代の面影はもちろん、向学心に燃えた父ら学生の息吹きを感じるものは皆無であった。

 生前の父はとにかく勉強が好きだった。農業高校の校長までなった人で、休日も学校によく出ていた。自宅にいるときは、片時も本を手ばなすことがなく、子供の目には読書している父の姿がしっかり焼き付いている。それがクセなのだろうが、本のページにはいたるところに赤い線が引いてあった。私が自分の本を出せるようになって、いつも照れながら新刊本をプレゼントしていたが、あとで上げた本をこっそり開いてみると、赤い線が引いてあって苦笑したものだ。定年退職後も、予備校の寮監などをしていたが、大学入試の参考書をせっせと勉強していた。その姿勢は、すべての公職を退いた後もまったく変わらず、晩年の父の書棚の半分は英語や数学や歴史の参考書で占められていた。私が根気の要る歴史資料調査を楽しく続けられるのも(時には執筆を遅らせる原因になるのだが)、間違いなく父の遺伝子のお陰だ。

 裏門から再びキャンパス内に戻り、体育館や運動場、ラグビー場を巡り出した。土曜日ということで、サークル活動に汗を流す健康な若者たちの姿がたくさんあった。勉強が趣味のような人だった父でも、何かに所属して活動していただろうか。女子学生との交流は……、とてもあり得そうにない父だったが、今はあったと思いたい。

樹木はけっこう多いが、キャンパス内にも農業教員養成所の面影は期待できそうもなかった。そこで私は、できるだけ古い建築物を探して歩いた。学生会館や三号館は古そうだが、建築当時のままではなく改修した跡がある。キャンパスを貫く銀杏並木は、いつからあるのだろう。新緑の枝葉が、初夏の日差しを、やさしく無数に砕いてくれている。

 洒落た駒場ファカルティハウスの建物を通り過ぎた。一〇二号館と明らかに創立当時からそこにあったと思われる講堂(九百番教室)との間に、巨木と熊笹でうず高くなった一画があり、そこに高さも幅も三メートル近い自然石の碑があった。道路からでも「駒場農学碑」と深く彫られた文字が読めた。

路傍の別石に由縁が刻まれていた。

駒場は明治十一年開校の駒場農学校以来、農業教育発祥の地として農学者や教育者を育ててきた。今回、一層の発展を期し、農学部は駒場から本郷へ移転するが、ここで学んだ人たちの追懐思慕の記念として碑を建てる、とあった。

建立は昭和十一年三月で、駒場に残ったのは、父たち農業教員養成所の百二十名だけとなった。卒業後、父は農業教育者として人生を全うした。若き日の父がこの石碑の前にたたずんだ姿が目の前に浮かんできて、私のまぶたは熱くなった。

熊笹の藪に分け入り、石碑に近付いた私は、当時の父の体温を感じようと碑面にそっと手を当てた。すると、それに応えるかのように、風が熊笹の葉を鳴らして通り過ぎていった。