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# 月刊公募ガイド92年4月号に掲載された写真
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# 99年9月26日撮影
<創作面の経歴>
小学校入学前からマンガ(月光仮面など)を読みだす(?)。
小学時代は行動のおかしな空想少年で、ストーリーマンガを書いていた。本人はマジでマンガ家になるつもりだった。
中学時代には、ろくに本も読まないくせに、多くのペンフレンドとせっせと文通を楽しみ、日記をつけ、おまけに小説まで書いていた。
だのに、理工系へ進んでしまうのだから、受験戦争というのは恐ろしい。劣等高校生だったが、古文や漢文だけは得意だった。
学園紛争にぎやかなりし頃、一浪して大学へ進学。なんと!数学の単位を落として留年。これが後に「円周率を計算した男」を書く伏線に・・・というのは、全くのウソ。とにかく、留年をきっかけに、ようやく自分の進路を小説家と定めたのだが、時すでに遅し!大学院へ進学するかたわら、新人賞応募を続けるが、予選通過が関の山。とうとうエンジニアとして就職するハメに。
大学院への進学を決めたのは、学生でいる期間を延長して、小説の勉強をすることと新人賞応募を繰り返し、あわよくば学生でデビューしようとしたからである。この虫のいい作戦を実現するためには、とにかく大学院試験に合格しなければならなかった。教養部で留年した私は、遅れた勉強を取り戻すため数学の勉強はもちろん、実はドイツ語の勉強もする必要があった。教養部で第2外国語として中国語を学んだのだが、大学院の試験では第2外国語としてはドイツ語かフランス語しか選択できなかったのである。ともかく、小説の勉強よりも進学のための勉強にウェイトを置く生活が始まった。そして、大学院の試験に合格したら思いっきり小説の勉強をしようと考えていた。
学部へ進んでからも、進学のための勉強を真剣に進めていた。おかげで大学院へは何とか進むことができた。ところが、待望の合格発表の直後にとんでもない事態が自分の体に起きたのである。試験の日まで何の苦もなく動いていた利き腕の右手が、震えて字が書けないのである。大学病院の外科で診てもらったところ、どこも悪くないという。精神神経科の方へ回され、「書痙」と診断された。「字を書き過ぎたことと、何か字を書くことに関してプレッシャーがあるのでしょう。しばらく字を書かないでいたらどうですか」「どのくらい?」「そう。1年ぐらい」「!・・・」医者の診断は鋭かった。これで思う存分小説を書くぞと思ったとたん、その反動(?)で手が震えているのだ。まだ、ワープロも市販されていない時代のことである。目の前が暗くなった。
それでも、そのうち直るだろうとタカをくくっていたのだが、ちっとも直る様子が見えない。いらだった私は、とうとう左手で文字を書く練習を始めた。ひらがなの「あ」「い」「う」から順にである。そうして、1年かけて、なんとか左手でも字が書けるようになり、小説の応募原稿はもちろん、大学院の修士論文も左手で書き上げるハメになり、あっという間に就職の時期となったのである。
経歴(2)
小説の自信はなかったけれど、会社の仕事なら大丈夫と思ったのが大間違い。自分の全知全能を傾けてもとうてい解決できないレベルの高さと、起きている時間すべてを使ってもこなしきれない量の仕事を与えられ、戦争のような会社生活が始まった。それでも弱音を吐かなかったのは、負けず嫌いの気性と、上司の巧みなコントロールに乗せられたせいか?
中堅社員になって合宿研修を受けているとき、昼休みに読んだ新聞に、歴史小説家の大内美代子さんの小説講座の予告記事が載っていた。きっかけを求めていた私はとにかく参加を決意。行ってみると、「義理で、今回3カ月だけ講座を持つことになりました」という。文集をまとめて講座は終了したが、最終日に一緒に昼食をとり、別れ際に「これ以上は教えてあげられません。だって、敵に塩を送るわけにはいかないでしょ?」、と最大の激励を受けた私は、作家への決意を新たにしたのだった。
その後、文芸評論家の清水信先生の教室に通いながら、できるだけ会社生活とは異なる時間を作るようにこころがけた。
そうして、次に出会ったのが<新鷹会(しんようかい)>なのである。
経歴(3)
大学時代、江戸時代に詳しい作家ということで、村上元三氏を知っていた。村上先生へファンレターを書いたこともある。村上先生の文章の中で、新鷹会という言葉が出てきたことがあるが、実態は知れなかった。私は、新鷹会が「大衆文芸」という雑誌を出していることをようやく知り、先ず定期購読を申し込んだ。すると、その雑誌の編集後記に小説の勉強会が開かれていることが書かれてあり、私は早速電話して、自分も出席したいと伝えたのである。電話に出てくれたのは、同誌の編集をされている伊東昌輝氏(平岩弓枝先生のご主人)だった。短編を見せてくれと言われたので、送付すると、出席が許可された。私は緊張した気分の中で、上京を決意した。
代々木八幡神社(平岩先生のご実家)が、勉強会の会場だった。1987年2月15日のことだった。伊東先生が私を紹介された。「今日は、道場破りが来ています。鳴海君、自己紹介しなさい」私が簡単に時代小説でプロを目指していることを打ち明けると、出席者の間にドヨメキがあった。近年、新鷹会では、男で比較的若くて時代小説を書こうという新人がいなかったのである。当時、私は34才だった。「じゃ、鳴海君、君の作品を読みなさい」いきなり読まされた作品は「うどんげの花」という掌編小説で、「ポエジーを感じるなあ」と伊東先生から評された。戸川幸夫先生やあの村上元三先生にもお会いでき、2次会、3次会では多くの先生方から入門を歓迎され、夢のような気分のまま、私は名古屋行きの夜行バスに乗り込んだのだった。
経歴(4)
その後、毎月のように作品を持参して、勉強会で読んだ。司会進行役の伊東先生は、たいてい新参者の私を一番に指名して、作品を読む機会を与えてくださった。長谷川伸先生がお元気だった頃は、持ち寄ったすべての作品を読み終わるまでやったので、深夜に及ぶことも珍しくなかったそうだが、昨今は多忙な人たちが多いので、午後2時から6時頃までで終了する。作品が多い場合は持ち越しも出てくるのだ。当時の読み手は、葛城範子さん、吉川隆代さん、高橋しげ子さん、小山弓さんといった女性が中心で、かなりのレベルの高さを感じていた。常連の出席作家は、村上元三氏(終わり頃にいつも登場)、戸川幸夫氏、野村敏雄氏、新井英夫氏(故人)、杉田幸三氏。たまに出席されるのが戸部新十郎氏、和巻耿介氏(故人)、平岩弓枝氏などであった。先生方は新人の作品に対して、書き手としての意見を述べられる。つまり、単なる批評ではなく「私だったらこういう風に書く」とコメントするのだ。その内容は、登場人物に対する人間理解に立脚したもので、毎回ほとほと感心する。長谷川伸先生は、「小説とは人間を描くことだ」と常日ごろから弟子たちに教えてきた。孫弟子の私もその教えを繰り返し繰り返し、この道場で受けることになったのである。
経歴(5)
入門した年の12月までに2本の作品が合格となり、私は理事会で承認され正式に新鷹会の正会員となった。88年の新年号にそうそうたる諸先輩と一緒に「大衆文芸」に作品が載り、意気上がるものがあった。しかし、真の実力がついたわけではなかったので、その後の作品は酷評の連続で、持ち前のしつこさだけで勉強会には出席していたが、壁にぶつかっていた。今にして思うと、作品を作り過ぎていたり(無理にストーリーにはめこもうとしていた)、色々な迷いでバラバラの作品を書いていた。
それでも、続けていたおかげで、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるの理屈で、2本の合格作品が書けて、90年に池内賞を新鷹会からいただいた。「大衆文芸」掲載作品も池内賞も「文藝年鑑」に掲載される。私はようやくまた小さな一歩を進めた気がした。池内賞授賞式の翌日からドイツ出張という、相変わらずの多忙な会社生活ではあったが、既に私の頭には、次の賞がちらついていたのである(もっと大きな新人賞をとらなければ、デビューはできないのだ)。そのころ、新鷹会へすい星のごとく登場したのが、松岡弘一さんである。
経歴(6)
ミステリー作家を目指す松岡さんは、新鷹会で毎月のように作品を発表したが、最初から異彩をはなっていた。とにかくエンタテインメントに徹しているのである。面白いのだ。彼は小説をよく研究していて、勉強会での皆のアドバイスを効率よく吸収していた。そして、黒豹賞、小説CLUB新人賞と立て続けに受賞し、その勢いで池内賞も受賞したのである。3つの賞はわずか1年間の出来事で、見事なデビューを飾ったといえる。小説に真剣に取り組んだこととクレバーで冷静な彼の頭脳がかちえた栄冠である。
その、彼の快挙と並行して、私の歴史文学賞受賞もあった。新人賞受賞こそ作家としてのデビューの条件と考えていた点は、松岡さんと全く同じである。勉強会のメンバーの中には、勉強会で十分力をつけてからでないと、新人賞応募はできないと思い込んでいる人がいる。そういう人は、本当に欲がないのか、または完璧主義者である。勉強会で全員から絶賛されるなどということは、とうていあり得ない。感性のなせる業であると同時に、好みの問題も出てくる。プロとしてやっていけるだけの読者をつかめるかがポイントで、その数は、絶対数でいえば数万人規模であろうし、比率でいえば10人のうち1人でもお金を出す気にさせられればOKなのではあるまいか。
私の場合、当時住んでいたところの市立図書館で、何か面白い本はないかとフラフラ歩いていて、平山諦著「和算の歴史」に目が行ったことが、すべての始まりとなった。
経歴(7)
「和算の歴史」をパラパラめくってみて、すぐ「これだ!」と思った。自分が目指すスタイルは、山本周五郎、藤沢周平、伊藤桂一といった世話物作家なのだが、これだけの大御所が君臨していたのでは、新人の分けいるすき間はない。プロ作家は専門店である。何か特徴がなければ、デビューは困難なのだ。普通は先人が手がけていない題材を選んで小説にしてデビューするのだが、なかなかそれを見つけるのは容易なことではない。ところが、「和算の歴史」を読んでみると、一応日本の数学の歴史の本なのだが、算額奉納や遺題承継、遊歴算家など、人間臭い、ドラマになりそうな出来事が目白押しなのである。自分のこれまでの経歴を振り返ったとき、この題材は普通の文学者では敬遠して書けないのではないか、としっかりそろばんもはじいたのである。和算関係の資料を漁り出したのはそれからである。参考書は結構値が張ったけれども、実態を勉強するためにはやむを得ない。そうして、私は、建部賢弘にターゲットをしぼり込むようになった。興味ある話題はたくさんあったが、中でも一番素人がとっつきやすい、円周率の公式を求める男のドラマにしたのである。しかも、この公式発見は西洋よりも早い、驚くべき出来事だった。日本人として、こういった輝かしい業績を残した人物はぜひ多くの人々に知らせたいと思った。
経歴(8)
「円周率を計算した男」に着手した頃、新聞にコンピューターによる円周率十億桁計算の記事が出た。建部賢弘の江戸初期の業績と現代のコンピュータによる記録が、不思議な不協和音でわたしの感性に響いた。作品の冒頭にしようとすぐ決めた。後に、歴史文学賞受賞後、「和算の歴史」の平山諦先生とコンピュータによる円周率計算の世界記録保持者、東京大学大型計算機センターの金田康正先生に手紙を出した。平山先生からは、その後いろいろな参考文献を送っていただいた。金田先生からは「世界的な作家になってください」というメッセージとともに円周率100万桁の入ったフロッピーを送っていただいた。両先生とも学部こそ違え、同じ東北大学の出身で、おかしな後輩への暖かいエールであった。残念ながら、平山先生は、わたしの本が出版される寸前の平成10年6月23日に93歳でお亡くなりになった。一方、金田先生は、平成9年7月に515億桁の記録を達成され、現在1兆桁に挑んでおられる。平山先生、金田先生だけでなく、処女出版後、多くの数学の先生から激励をいただいていることは、書評一覧のページをご覧いただければ納得されると思う。
ということで、数学の先生方のご期待にこたえようと、現在、「円周率を計算した男」と同様、和算家を主人公にした小説に取り組んでいる。
(経歴紹介、とりあえず終了・・・そのうち再開するでしょう)
受賞歴 |
1990年 第20回池内祥三文学奨励賞 |
所属団体 |
新鷹会(しんようかい) |
筆名の由来 |
鳴海は幼時に耳にした最初の名前。小学校の低学年まで秋田県北部に住んでいました。琴の師範である母に連れられて、琴の道具類を売る店「鳴海屋」さんへよく行きました。鳴海という姓は青森県に多く、鳴海さんは近所にもたくさんいたと思われます。 |
生年月日 |
昭和28年(1953)10月15日 |
血液型 |
B |
現在住んでいる所 |
愛知県知多半島の某所 |
生まれた所 |
新潟県加茂市 |
かつて住んでいた所 |
秋田県(鷹巣町、大曲市、西目町、秋田市)、宮城県(富谷町)、愛知県安城市 |
本籍地 |
東京都青梅市 |
家族とその周辺 |
妻、娘2、息子1、雄猫シルバー(2009年10月3日亡くなりました)、雌猫チーズ・カマ・ペコ、亀の亀子、ちびたん |
自慢できること |
猫との会話、願いは必ず実現すること |
苦手なこと |
ゴキブリ、西瓜、ジェットコースター |
趣味 |
旅行、映画、ジャズ、英会話(英検準1級)、絵画鑑賞、ピアノ(挫折中)、機械いじり:修士(工学)、 |
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