01年9月の分はここ
10月1日(月)「久々の因縁の対決・・・の風さん」
とても最後まで十分なりファインができないことが分かったので、夕べの11時くらいからラストスパートに入った・・・けど、もうダメ。今回も後半は息切れした原稿になってしまった。届いたら、第3稿を書くことを許してもらおう。今朝の2時近くからプリントアウトと原稿綴じ作業を始め、宅急便の準備が終わったのが3時過ぎだった。それからシャワーを浴びて、4時頃に仮眠に入った。まるで受験生である。そして、6時に起床し、出社した。睡眠時間は2時間ちょっとだな。偉いねえ、風さんは・・・と自分で自分を誉めておこう。
早朝ミーティングから会社生活が始まった。例によって寝不足がばれていくが、しゃあないじゃんか、と開き直る。それでも3週間前の徹夜明けよりは体調はいいぞ。なんたって2日間で5時間近くは寝てるから。・・・で、昼休みにうとうとしていたら、チャイムが鳴ったのも気付かず、寝ていた。その後もちゃちゃっと仕事をこなし(・・・てなわけないか)、定時後まで命ながらえたので、久々のボウリング「因縁の対決」に出かけた。自宅へその旨電話すると、ワイフからすげえ心配された。「大丈夫。ぼくは試合に負けないよ」・・・って、話が違うか。「大丈夫。居眠り運転なんかしないで、無事に帰るから」・・・と、これならいいな。
顔ぶれは常任メンバーのドクターKとしみずである。本当に久しぶりに行ってみると、ボウリング場がリニューアルされていた。で、結果は・・・書きたくない。しみずが喜ぶだけだから。風さんは体調を考慮し、12ポンドのピンクのボールを使って、131、152、143という平凡な成績でした。その後、3人で晩飯を食べて帰った。
10月6日(土)「焦りまくる風さんの巻」
今朝は早起きして執筆も頑張るが、それ以上に、心に決めた重要な計画があった。
実は、今度の小説の装丁を、さる有名な画家の先生にお願いする決心をしていた。これは私にとって以前から夢見ていたことである。しかし、自分の実力不足による不釣合いのため、とても言い出しかねていた。ところが、この夢を出版社の編集者に語ってみたところ、ぜひ頼んでみるべきだ、と励まされたのである。出版社がバックアップしてくれるということは、私にとっても心強いことで、それなら「ダメモト」で頼んでみようか、と気の弱い私も怖気をふるって行動に移すことにした。ただし、遅くとも12月初めに出版されるためには、装丁を頼めるかどうか、早急に決める必要があった。
さる有名な画家の先生がどなたなのかは、慎重を期するため、今は書かないことにする。が、少しそのアウトラインを紹介すると、ある偉大な小説家との出会いをもって語られることが多いこと、作品を容易に売らないこと(つまり商業ベースでの仕事はきわめて限定されていること)、そして当地では大変有名であり人気も高い先生である。私はお目にかかったことはまだない。
昨日、先生の美術館に電話を入れて、趣旨を述べて、お会いしたいアポイントメントをとりたい旨、お願いした。が、「先生に直接お願いして下さい」と言われた。こういったことを先生が受け入れないだろうことを暗示するような反応だった。こうなったら、先生の自宅に直接電話してお願いしようと思った。
所有する平成4年版の文芸年鑑の中の文化人リストを調べると、先生の住所は記載されていたが、電話番号はなかった。それで、104で調べてみると、「その住所と名前でのお届はありません」とのこと。ということは、防犯上の理由等で公開されていない可能性が高まった。美術館に問い合わせても教えてくれそうもないと思われた。一計を案じた私は、中日新聞の記者で、最近京都支局へ転勤になったKさんへ相談することにした。ところが、出張中で連絡がとれなかった。やむを得ず、面識はないけれども、Kさんが紹介してくれたもうひとりのKさんに電話してみた。すると、そのKさんは今日はお休みとのことで、自宅から拙宅へ電話してもらうようにお願いした。電話はすぐ来た。初めてお話するのである。趣旨を述べると、「こういった場合、私たちは、先ず手紙で申し入れ、その後、直接お会いしてお願いします」という(頭に血が上った風さんにとっては)きわめて冷静沈着、常識的かつ適切なアドバイスがいただけたのである。私は目が覚めたような気分になり、よくお礼を述べて電話を切った。
手紙はすぐに書けた(こういうときは、自分が文章のプロで良かったと思う)。たとえ題字(タイトル)の揮毫だけでもお願いできませんか、と書いた。今日は土曜日なので、何となく郵便では遅くなる気がして、宅配便で届けることにした。
そうすると、今度は送り先の住所が変わっていないか、不安になってきた。平成4年版ではいかにも情報が古い。私は宅配用に梱包した包みを持って、隣町の図書館まで確認のために急行した。すると、平成13年版にはなぜか先生の名前が消えていた。しかし、1998年版の別の全国文化人年鑑には記載されていて、電話番号はなかったが、住所は変更なかった。その住所のきわめて詳細な地図をチェックすると、先生のご自宅と思われる記載も発見できた。
午後1時にコンビニから宅配便を出すことができた。うまくいけば、明日の午後ぐらいに電話で返事がいただけるだろう。編集者とは水曜日に打ち合わせる約束なので、どうにか間に合う。
昼食後、少し安心した私は、トレーニングに出かけた。
血圧は115―71。体脂肪率は19.3%(肥満度−1.9%)と安定している。
10月7日(日)「前進〜!・・・の風さん」
夕べはワイフとワインをしこたま飲んで就寝が遅くなった。
寝坊したが、朝食後、ワイフと昨日の先生の美術館へ出かけた。何度鑑賞しても天才ぶりに感動する。私は私なりの鑑賞眼があって、絵の好きなワイフに偉そうに解説するのだが、ワイフも毎回感動してくれる。
帰途、フリーマーケットを覗いて帰宅した。昼食を食べたらどっと疲労が出て、私は昼寝してしまった。1時間ほど経過した時、電話が鳴った。ワイフが出た。「先生のご家族の方からですよ」私は飛び起きて、電話に出た。
電話は先生のお嬢様で、「父が手紙を読みまして、タイトルの揮毫ならいたします、ということでした。それでもよろしいですか」とのこと。私の寝ぼけ頭はいっぺんに覚めて、「ありがとうございます。よろしくお願いします」と感謝申し上げた。「それでは、タイトルが正式に決まったら、美術館を通じて連絡して下さい」「ありがとうございます。先生によろしくお伝え下さい」で電話を切った。
私の夢は実現へ向けて大きく前進した。
多くの先輩作家が、出版のために、ありとあらゆる努力をされている。この気まぐれ日記でも、日本インターネット歴史作家協会や親しくさせていただいている作家の名前を(本来ライバルであるにもかかわらず)紹介しているのは、ただ単に義理でしていることではない。小説家としての作品以外での努力を見聞きしているし、自分も実感しているため、大いに共感しているからこそ、記述しているのである。
10月10日(水)「NPO作家・・・の風さん」
出版スケジュールが押し詰まってきたので、装丁の件を含めて打ち合わせるため、午後半日休暇をとって上京した。土砂降りの雨だった。資料を詰め込んだカバンも重かった。
駅の旅行代理店で往復の新幹線の切符を買って悠々と出発。
八重洲口の改札口を出たところで編集者と落ち合い、喫茶店で2時間ほど超特急の打合せをした。デザイナーは合流できなかったので、こちらから一方的に状況説明した。あとで、デザイナーの判断で今後のアクションが決まる。出版部数とか定価の予想を聞いたが、自分としては満足できる数値だった。何とか初版は完売させたい。もっとも、この出版社・・・ええい、ばらしちまおう。小学館です。飯島愛の『プラトニック・セックス』とか宮部みゆきちゃんの『模倣犯』とか(たしか小学館だったよね)、商売はうまくいっているらしい。同時期に童門冬二さんの本も出るそうで、少なくとも人目にはふれやすい、ということはあります。
打合せがすんでからとんぼ返りで帰った。雨はすっかりあがっていた。去年の『算聖伝』でもこういった場面はあった。当然自腹で、二足のわらじだから平気でできる行動である。これを称してNPO作家というのはどうかな。
10月11日(木)「今日もNPO作家・・・の風さん」
夕べ帰宅したら、打ち合わせた編集者から、装丁の件で急遽デザイナーの方と一緒に美術館へ来るというFAXが入っていた。この慌ただしさは会社の仕事と似ている。
今回の装丁には格別の思い入れがある風さんとしては、ぜひとも同行しなければならない。それで、出社後、超特急で業務をこなしつつ、午後有休となるように調整した。あちこちへ迷惑をかけたのは間違いない。その間に、デザイナーの方の携帯へ電話して、落ち合う段取りを相談したが、なかなかはかどらなかった。電波事情が悪かったせいもある。しかし、一番の原因は、お互いの誤解であろう。デザイナー氏(女性です)は、会社員である私が同行するのはきわめて困難であると思っていたこと。一方私は、著者として、装丁への希望がかなり通ると信じ込んでいたことである。この行き違いが、微妙な呼吸のずれとなっていた。
しかし、お互いにプロなんですねえ。落ち合ってからは、共通のターゲットへ向けて、主張すべきは主張しつつ、妥協点へと急速に進んで行った。デザイナー氏の見学・取材中の姿勢は真剣だし、その間の会話は機知に富んでいて、いろいろと勉強になった。きっと良い仕事をしてくれると確信した。
新作のタイトルが確定した。『和算忠臣蔵』である。商業ベースの命名であることは否めない。いわば分類記号。無名作家は何とかして客の目にとまらなければならないのだ。
デザイナー氏の強い希望で、別途絵の借用を出版社からお願いすることになった。実現はきわめて困難と思われる。その場合の、第2案、第3案も打ち合わせた。どちらも私の提案がベースになっている。保険案になっても、デザイナー氏の手腕がどのように発揮されるか、とても楽しみである。
美術館への送迎を私がしたので、今日もNPO作家の風さんだった。
残された懸案事項は、来週の火曜日に解決すると思われる。
10月12日(金)「奇跡だ〜!・・・の風さん」
夕方、まだ会社にいるときに、胸の携帯がぶるぶる震えた。編集者からだった。
「鳴海さん。オッケーが出ましたよ!」画伯から絵の使用許可が出たという。「嘘でしょう?」とても信じられなかった。「私は、悪い冗談は申しません!」断固とした編集者の言葉に、私の五体は凍りついた。
昨夜、編集者は帰社するとすぐ画伯への手紙を書いてくれた。そして、夕べのうちに宅急便で出してくれたのだ。速達、書留のように速くて確実な手段である。実績は先日私が確認済み。意外にもすぐに受諾の電話があったという。
まだ夢ではないかと疑っているので、詳細は明かせないが、うれしさのあまり、社内で親しい人たちについ打ち明けてしまった。それほど名誉であり、大感激のうれしい出来事なのである。最後に編集者の絶賛のひとことを書いておこう。照れるし、もったいないことではあるが、許してください。
「吉川英治の次は鳴海風でしたね!」
10月13日(土)「歓喜の夜が明けて・・・の風さん」
久しぶりに気まぐれ日記が続いているので、魔堂さんや涌井さんからメールが届いて、うれしい。とにかく、あとひとふんばりである。
今朝だったか昨日だったか忘れたが、リビングでカマキリが天井から降ってきたそうだ。
「今年はゴキが少なかったわねえ」ワイフの感想である。同感。書斎でもほとんど出なかった。コオロギが出たのには驚いたが。シロアリもね。生態系というのは、自然の一部なので、いつも決まっているわけではないし、いろいろな自然現象と連動しているはずだ。ゴキが少ないことが何と連動しているのか解明できれば、毎年の悩みがちっとは減るだろうが、見当もつかない。
自然現象と連動といえば、最近ワイフがメールもやりだしたことは以前書いた。それにより夫婦の危機が訪れたことも書いた。おっと、筆は禍の元。私は無実の罪で疑われただけである・・・と書くと鈴木輝一郎さんと一緒になってしまうか。・・・そうじゃなくて、ワイフが私のパソコンに接近すると、パソコンがフリーズする確率がきわめて高いことを書きたかったのだ。それはワイフも認めていることで、理由は分からぬ。なに? 私とパソコンが同じ穴のむじなだって? 同罪? そんなアホな。
10月14日(日)「むむ。アイデアが出ない・・・の風さん」
一昨日の深夜、久しぶりにPS2でDOA2(格闘技シミュレーションですよ)を遊んだ。私はいつもレイファンちゃんを選択する。可愛いから。それにしても出てくる女の子のプロポーションのリアリティにはよだれが出るぜ。死ぬほどボタンを押して、何とかクリアした。
NPO団体で運営している『図書館の学校』という雑誌から、巻頭言を依頼されているのだけど、何とか完成した。ギリギリまで暖めておいて発送する予定。このネタは換骨奪胎して、あと二つの仕事に応用しようと企んでいる。
2週間に1度の図書館通いの日だった。今日はちょっと調べものをしてみた。すると、ひとつ発見した。お寺を調べていたのだ。『全国寺院名鑑』に載っていた。コピーを頼んだら、10円だった。申請用紙を1枚使ったので、これじゃ収支が合わないと思うんだけど・・・。
アイデアが出ないので、時間はないが、トレーニングに行ってきた。ストレッチ、ラボード、腹筋、背筋、ラットプルダウン、レッグプレスと軽くこなした。トレーニング後の血圧は115−70で、体脂肪率は20.2%(肥満度−0.7%)だった。さて、夢は夜開くというが、アイデアは夜出るか。
10月22日(月)「お待たせ・・・の風さん」
今日、『和算忠臣蔵』第3稿(フロッピー付き)を出版社へ送付した。これでゲラになる。
タフでも充実した1週間だった。振り返ってみよう。
15日(月)。新鷹会は欠席。これで4ヶ月連続欠席だ。『図書館の学校』巻頭言の原稿を早朝に投函した。この日は帰宅が遅くなり、夜遅く、巻頭言をメールに添付して送付した。内容は全く同一である。
16日(火)。『和算忠臣蔵』の題字をS画伯に揮毫してもらえる日である。午後、ワイフから電話があり、美術館で受け取ったとのこと。拝借する絵のポジフィルムも一緒だ。出版社へ電話すると、そちらでも確認できたそうだ。帰宅して拝見すると、不思議な字体だった。でも、読める。コピー機で濃淡を変えて複写すると、不思議な味わいが出た。題字と絵が確保できたので、あとはデザイナーが全体の装丁をしてくれる。いよいよ夢の実現だ。『図書館の学校』巻頭言の原稿が到着したとのメールがあった。次はゲラを送ってくるとのこと。
17日(水)。題字とポジフィルムを宅急便で送付した。
18日(木)。出版社から宅急便が着いたとの連絡。
19日(金)。早朝から大きな会議で発表。午後はT社へ出張。2時間半マイカーを運転して帰宅した。晩飯後、疲れがどっと出てソファで爆睡。
20日(土)。実によく寝た。1日中、執筆。2時間書いては休憩というのを繰り返す。
21日(日)。いよいよラストスパート。執筆の仕方は昨日に同じ。とにかく迷わず書き込む。時代考証で時間をとられ過ぎないように気をつける。そのまま日付変更線を通過。
午前4時前にようやく印刷が始まった。前半は完璧な出来だが、後半は今回も息切れしている。あとはゲラで修正するしかない。だが、どうにか目標枚数をクリアしたし、全体的には水準近くなったような気がする。紙を大量にセットして、とりあえず入浴。空腹を感じたのでバナナを食べた。印刷が終了したのは午前5時だった。紐で綴じて、宅急便の用意をして、1時間だけ仮眠した。
ワイフに宅急便を頼んで出社した。睡眠不足だったが、居眠りもせず1日の業務を終え、9時頃帰宅した。さすがに眠い。やはり土日作家は能率が悪いことをあらためて認識した。
10月26日(金)「またまた、お待たせ・・・の風さん」
なかなかのんびりできない1週間であった。
23日(火)原稿とフロッピーが届いたとの連絡があった。「図書館の学校」巻頭言のゲラが届いた。プリントアウトだけでなく電子メールでファイルも送ってあったせいか、全く間違いはない。ワイフが良い出来だ、と誉めてくれたので、これで校了にすることにした。その旨、メールで連絡した。
24日(水)午前中の会議の間に、ふと原稿修正のアイデアが浮かんだ。昼休みに編集者と電話して、修正部分をファックスすることにした。帰宅してダウンして寝ていたら、編集者から電話があり、予想外にページ数が多い、と言う。最悪縮めることもあり得るとのこと。今朝浮かんだアイデアに基づいて原稿を修正し、午前1時頃にファックスした。その後シャワーを浴びて、縮める案を考えながら就寝したら、眠れなくなってしまった。「図書館の学校」編集部よりメールを受信した。あとは配本を待つだけ。
25日(木)昼休みに原稿の短縮を検討しているうちに、全体の均整をとる良いアイデアが浮かんだ。編集者と電話で話すと、短縮は無理にしなくてもいい、と言う。しかし、この均整をとる方法はぜひ試したい、と宣言した。帰宅したら、『和算忠臣蔵』のゲラが届いていた。恐るべき早さである。晩飯後、さっそく作業開始。エピローグを大幅修正して、午前0時にファックスした。眠れなくならないように、ビールを飲んで寝た。
そして、今日のこと。編集者から電話があり、「よくなりましたね」と評価された。どうやら水準に達した感がある。あとひと息だ。
退社後、整形外科に寄り、診察、リハビリを受け、薬をもらって帰宅した。
10月27日(土)「たまには父親することもある・・・の風さん」
1週間分の疲労が出る土曜日。朝寝して、小5の次女が作ったブランチを食べてから買い物に出かけた。まずまずの天気である。仕事は残っているが、あくせくしないことにする。
帰宅したら、やっぱりまだ疲労がたまっている。仮眠して、目覚めたら、もう夕方。中1の長男が音の出ないN64で遊んでいた。そうだ。おいらは昨夜もPS2のDOR2でレイファンちゃんと遊んだのだ。それに比べてこの長男は、もう長いこと音の出ないN64で我慢していたのだ。そう言えば、こいつは2学期の中間試験で、予告通り理科が1番だった(他の科目はひどい)。そのご褒美に、たまには父親してやるか。どうせコードの断線だろうと踏んで、テスターを用意した。
テレビと接続しているコードは黄色と白の2本である。黄色は映像用なので、問題があるのは白だ。白コードの信号線とアース線をテスターでチェックすると、案の定、信号線が断線していた。「さあ。手術するぞ」と掛け声一声。風さんは工具を使って荒療治の開始。先ず、コードの中央でばっさりと切断して、左右どちらに問題があるか判定した。本体側だった。次にまたその真中でばっさり。やはり本体側が導通しない。ここで不安になった。なぜなら、コネクター内部に見えない欠陥があるとすると、ターミナルかしめ等があるため、これを修理復元するのはちと面倒なことになる。そこで、コネクターのすぐ近くでばっさりやって、その判断をしてみたら、ラッキーにもコード側に問題のあることが判明した。
切断した3箇所をしっかりつないで、ビニール・テープでぐるぐる巻きにした。分解したコネクター部分はパチンポン方式になっていたので、完全に元通りにはできなかったが、最後はこれもビニール・テープでぐるぐる巻きにして全作業を終了した。コード類を接続して、ゲームを開始してみると、何ヶ月ぶりかで音の出るゲームが楽しめた。そばで見ていた長男は、まだ父親と同じことはできないが、解説を聞きながら見ていて、少しは感じることもあったろう。
普段は家庭にいても小説家としての多忙な日々を過ごしているため、良き父親ではない。小説家としてはまだまだだが、時間の使い方で言えば、十分2足のワラジをはいていると言える。定年までこんな状態を続けることがないように頑張りたい。
10月28日(日)「最後の徹夜か・・・の風さん」
昨夜、『和算忠臣蔵』のゲラ校正に着手したのが、10時過ぎだった。前半は完成度が高いので、超速なんとかでチェックしていった。自分が送ったフロッピーが元になっているので、ほとんど変換ミスはない。ルビが消えているぐらい。問題は後半で、ラストは入念に再構築してあったので、その前つまり後半の前半であった。
ある、ある。おかしな部分がわんさとある。元の文章が変なので、直さなければいけない。辻褄が合わないところや、迫力不足のところも目立つ。急激にペースが落ちて、午前2時頃ワイフが「寝るわよ」と書斎をのぞきに来たあたりから、もうだめ。
必死に作業しているうちに、夜が明けた。
9時過ぎに朝食を摂り、シャワーを浴びて一眠りしてから宅急便を出すつもりだったが、シャワーを浴びているうちに、また手直ししたくなってしまい、結局、10時半まで作業が続いた。それで宅急便はワイフに頼んで、ようやくひとねむり。
起こされたのが午後2時過ぎで、それからバタバタと用事を済ませ、大事なことが、ひとつできなかった。今日は町の文化祭で、ワイフの主催するトールペインティング教室も展示していたし、子供たちの絵や習字も発表されていたのに、見られなかったのだ。
お詫びに、これからドーナツを買いに行くことにした。
10月30日(火)「ケータイ・メール裏わざ・・・の風さん」
某番組でケータイ・メールの裏ワザが紹介された。うっそー、とは思ったが、番組の中では確認されていたので、もしかすると本当かもしれない、とそのときは思っていた。
ケータイでメールを送るときに、相手のアドレスのne.jpのところを、ne3.jpと変えると本文が大阪弁に、ne4.jpと変えると本文が幼児言葉に自動変換されるという信じられない裏わざだった。
それが土曜日の話。そのときワイフが私のケータイにメールを送ったらしい。知らなかった。そのメールが日曜日の午後に届いた。読んでみると、なんと幼児言葉に変換されている。つまり「す」がすべて「ちゅ」になっているのだ。たとえば「いつも大変ですね」が「いつも大変でちゅね」となっている。裏わざは本当だった。今度は大阪弁バージョンを調べてみよう。
さて、ケータイと言えば、今月はすげえケータイを使用している。会社から出版社に何度もかけているからだ。請求額はきっとン万円となるだろう。お〜、怖〜。
ゲラを送ってからたまった雑用を処理しているが、なかなか捗らない。昨日は、ついにノートパソコンを修理に出した。手紙を出したり、やることが死ぬほどある。
気まぐれ日記 01年11月へつづく