01年3月の分はここ

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 2001年4月            おすすめマーク 
  1  とうとう浪漫堂に抜かれた・・・の風さん
  2  友人のホームページ・・・の風さん
  3  
  4  何故か物悲しい物語・・・の風さん
  5  
  6  
  7  
  8  家庭人の風さんの巻
  9  帰宅したら松葉杖が・・・の風さん  
  10  17個目の書評・・・の風さん  
  11  読んで読んで読みまくった1日・・・の風さん  
  12  
  13  18個目の書評・・・の風さん  
  14  寝坊すると1日はあっという間か・・・の風さん  
  15  爆睡して面白いこともなし・・・の風さん
  16  慌てまくった風さんの巻  
  17  また花粉症で苦しい風さんの巻
  18  
  19  うっとうしい24時間血圧測定の巻
  20  19個目の書評は、やはりキャノンの涌井さんの巻
  21  長崎は雨、最低から最高・・・の風さん 
  22  
  23  いよいよ執筆専念か・・・の風さん
  24  
  25  は、歯が・・・の風さん
  26  とうとう薬が手放せない半病人・・・の風さん
  27  
  28  今年2度目のトレーニング・・・の風さん
  29  
  30
 こんな結婚記念日見たことないそうな・・・の風さん
   
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4月1日(日)「とうとう浪漫堂に抜かれた・・・の風さん」
 
実に久々にマイペースの週末を過ごした。
 昨日は、今年初めてのトレーニングに出かけた。花粉症やら風邪気味やら運動不足やらで、体調はきわめて怪しい。体重も血圧もとんでもない値になっている気がしていた。
 先ず、寝坊せずに8時過ぎに起床し、午前中に年表作りと資料読みに専念した後、昼食後に体育館へ。とにかく体がガチガチである。入念にストレッチをしてから、ステアマスター、腹筋、背筋、ラットプルダウン、レッグプレス、ショルダープレス、カーフレイズとこなした。体重も血圧もびっくりするような値ではなかったので、ひと安心。
 その翌日が、今日である。昨日より早い7時過ぎに起床。少し筋肉が張っている感じがある。早速トレーニングの効果が出たか。朝食後、年表作りの続きをやった。これが気の遠くなる作業で、結構疲れる。昼前に給油のために外出。近在は祭りのシーズンらしく、茶髪の兄ちゃんたちが派手な衣装でうろついている。いつの時代も若者は目立ちたがり屋が多い。空は抜けるように青い。雨上がりで花粉の飛散が少ない。気持ちの良い季節を感じる。たまたま車のFMでイブ・モンタンの歌が流れてきたら、センチメンタルな気分になった。シャンソンのメロディがパリを思い出させ、それがそのまま自分の青春に結びつくからだなあ。カーショップで買ったばかりのコロンが、鼻腔をくすぐるぜ。
 昨年、鈴木先生から借りた本を、昨夜ようやく読んでしまったので、2冊とも全ページ複写して写本を作った。児童向けの本だが、実は恐るべき内容の本だった。
 年表作りが一段落した。そろそろ資料読みも大詰めである。
 さて、今日のタイトルである。1年前に半田市に越してこられた秋月達郎さんのホームページ浪漫堂のアクセス・カウンターに、ついに当ホームページは抜かれてしまった。仕方ないよな。向こうは大先輩で有名人なんだもの。

4月2日(月)「友人のホームページ・・・の風さん」
 たまにyahooなんかで鳴海風を検索すると、意外なサイトに自分が出ていて面白い。
 もっとも前回は悔しい思いもした。何せ日経新聞に出た紹介記事がそのまま日経新聞のホームページに出ていたのだが、発見したその日のうちに記事は消されてしまったのだから。でも、そのページは保存してあるので、そのうち気が向いたら、ここでも見られるようにしよう。
 おっと。今日はそんな話ではない。そのとき、友人のホームページで、ここがリンク先として紹介してあるのを見つけてうれしかったことを書きたかったのだ。もっとも、そこは母校の大学の研究室のホームページなので、一般の人には興味は湧かないかもしれない。でも、今日は紹介するので、お時間のある人はのぞいてみてください。
 Kosuge Laboratory というホームページです。
 こういった私とか私の作品を紹介してくれているホームページには、大学の研究室が結構ある。これからも少しずつ紹介したい。
 さて、今日は、久しぶりに花粉症の症状がたいしたことなかった。ようやくピークを過ぎたようだ。作家仲間のホームページを見ても、結構、みんな苦しんでいたし、昨夜、松岡弘一さんに電話したら、薬の飲み過ぎで帯状発疹か何かができている、とゲンナリした声で言っていた。年々ひどくなる花粉症なので、来年が怖い。

4月4日(水)「何故か物悲しい物語・・・の風さん」
 3日連続花粉症の症状が弱いので楽だ。
 今朝も7時20分には出社した。部内では毎日トップである。フロアでも五指に入るかも。信じられない老人モードだ。
 帰宅したら「文藝家協會ニュース」というのが届いていた。3月理事会に先立ち入会委員会が開催され、三氏の入会が可決とあり、私の紹介文が掲載されていた。推薦してくださった伊藤桂一先生にはお礼の葉書を書いて送ってある。これから、また新たなる挑戦だ。
 それから、bk−1で注文してあった「似顔絵」(東野光生著、河出書房新社)が、ようやく届いた。遅延のお知らせが来ていたので、もしかして入手できないのでは、と少々気分を害していた。なぜなら、容易に入手できないような本に対して賞を与えたのか、とヤッカミ半分だったからだ。しかし、とにかく届いた。
 この「似顔絵」と最後まで文芸選奨を競って、私は敗れたのだ。
 四六版で200ページほどの本である。つまり私の『算聖伝』の半分の厚さである。装丁はきわめて地味で渋い・・・と思ったら、著者本人の装丁だった。著者の東野光生氏は、水墨画家である。興味本位にYahooで「東野光生」を検索したら14件ヒットした。書評が数件あり、三浦雅士氏のが目を引いたけれども、読むのはやめておいた。で、自分で読んでみることにした。純文学とのことだった。文体はゴツゴツした感じで、私のものとだいぶ違う。上手な文章とは思えない。不器用な印象すらある。だが、感情を抑えたタッチは基本に忠実で好感はもてる。
 ・・・と品定めしつつ読み進んで、すぐ1節が終わってしまった。物悲しい話だが、突き放した文体のせいか、スリリングで、ついつい先を読んでしまう。不思議な経験をした。

4月8日(日)「家庭人の風さんの巻」
 昨日の土曜日は、久々に疲れのとれない朝だった。そこへ追い討ちをかけるように、パソコンの調子がおかしくなった。そもそも金曜日からインターネット接続ができなかった。結局、昨日は午前中いっぱいかかってもダメで、なんとか内蔵のモデムで接続はできたものの、TAでの接続は最後までダメだった。それで、ますます疲れてしまい、昼ご飯を食べた後は、こんこんと眠りこけた。
 これではいけないと、夕食後、徹夜態勢で資料読みやら何やらを続けたのだが、今朝の3時過ぎであえなくダウン。風呂に入って4時に寝た。
 ・・・で、今朝は7時40分に起床。
 ワイフは今月からトールペインティングの自宅教室を開講して、意気盛んなのだが、今日は名古屋に世界的に有名な先生が来るとかで、仲間と一緒に教えを乞いに出かける。2人の娘はワイフの両親が名古屋城の花見に連れて行ってくれるというので、ワイフと3人を最寄りの駅まで送った。
 戻ってから『似顔絵』の続きを読み終えた。冒頭の印象は冒頭だけで、その後、内容はきわめて技巧的になり、おまけに文章が抜群に冴え出した。主人公と老女が花見に出かける節では、老女の言葉から主人公が失った家族との思い出を思い出し、結局淡い桜の下での、美しくも儚い人生を思いっきり描写しつくすという、恐れ入りました、という内容である。途中で学問的なうるさい台詞などが入ったりするが、それ以外は、見事と言うしかない。終盤には、あっと驚く展開もひそませてあるし、最後はもう感動の連続だ。これでは、さしもの『算聖伝』も敗れて悔いなしと思った。・・・と感嘆符の連発だったが、このように文章に凝った作品は幸いにも私は書いたことがない。ということは、私の作品にはまだまだ成長の余地が残っているわけだ。次作は、少なくとも文章には今までよりも力を入れるぞ。
 もう1人留守番をしている奴がいた。長男である。こいつを誘って、団地内の公園までキャッチボールをしに行った。公園には野球のやれるグラウンドがあるのだ。長男は今年から中1である。なよなよした坊主だが、けっこう投げられるようになっていた。そうは言っても、30分でこっちがバテた。
 昼食後、半田市内にある塾S学院に入学説明会を聞きに出かけた。ワイフが出かけているので、私しかいないのである。1時間ほど話を聞いたが、魅力ない公立学校に比べて塾がはやるのは、情熱的な教師がいるからだろう。ただの説明会だけでも、キャッチセールの営業マンのように、彼らは大きな声で黒板をチョークで叩きながら、熱っぽく語るのである。帰りに買い物をして帰った。
 帰宅すると、2人の娘が帰っていて、長女は早速今夜の塾の講義のための予習をしていた。楽しい塾通いになればいいが・・・。そうこうしているうちに、ワイフからの電話があり、また駅まで迎えに行った。
 今度は、塾へ行く長女を再び駅まで送った。
 ワイフはトールペインティングで疲れているので、夕食は外でということになり、私の運転で4人で出かけた。
 あと、また長女を迎えに行かねばならない。
 家庭人をしていたら、作家はやれない。これは本当だと思う。
 パソコンは相変わらずISDN接続ができない。

4月9日(月)「帰宅したら松葉杖が・・・の風さん」
 帰宅したら、玄関に松葉杖があってビックリ。
 昨日キャッチボールをした長男が、夕方自転車で遊びに行っていて、フェンスに激突。はじきとばされた挙句、右足首を捻挫したとのこと。「ブラッド・ピット先生が、全治4週間と言ってたわ」とワイフ。ブラッド・ピット先生と言うのは、診てもらった外科医のことで、男前でブラッド・ピットにそっくりなんだって! 続けて、ワイフ。「あたし、右のひじが痛いのだけど、今度診てもらおうかしら」 もう勝手にしなさい。

4月10日(火)「17個目の書評・・・の風さん」
 昨日、ようやく私の記事が掲載された当地の朝日新聞夕刊を入手した。関東地方で出た記事そっくりではない。こちらの方が記者氏の思いが素直に表現されている気がする。なぜか両者を並べて分析してみた。当地の記事はオリジナルよりも短いのだ。バッサリと切って短いのでなく、ひとつひとつの文章をぎりぎりに切り詰めている。写真までぎりぎりにトリミングされている。それで分かった。自分の記事は正直言って照れくさい。それが坊主頭のように刈り込まれていてあっという間に読めるから、記者氏の気持ちがこちらに伝わってくるのだ。
 帰宅したら、「数学のたのしみ」24号(日本評論社)が届いていた。群馬大学の瀬山教授が書いてくださった書評が載っている。瀬山先生は新潟日報にも書評を書いてくれ、「こっちもほとんど同じ文章で申し訳ない」といったメールをいただいていたが、うそ、ウソ、嘘。ほとんど違っている。数学関係者が読者であることを意識して、(1)どうして和算小説が受けるのか (2)最近の教育指導要領が骨抜きになった話 (3)数学者から見た関孝和 といった内容を盛り込みながら、文学作品としての分析や妙に心に残った感想をつづっておられる。
 妙に心に残った感想というのは、『算聖伝』に登場する数奇な生涯をたどった謎の数学者池田昌意が「おぬしはいやな男だな」と関孝和に向かって言ったことばである。小説技法的に解説すれば、登場人物を立体的に陰影をつけて描写する、ひとつの手法である。しかし、それでは味気ないでしょうね。天才と言われる関孝和を、いかにも平凡な男に描きながら、何となくすごい奴だったという印象を残すための伏線でもあります。
 それでは、瀬山先生の研究室のホームページを紹介しておきましょう。
 数学をたのしむホームページです。

4月11日(水)「読んで読んで読みまくった1日・・・の風さん」
 今日は千葉県習志野市へ出張であった。初夏のような陽気で、合着では暑かった。
 5時から起き出して、さっそく読書・・・というか、資料読み。自宅を出発して、電車に乗ってからも、すぐに本を開いた。今日は、読みかけの文庫1冊と、東海大学の悪友の友人である福井信子訳、ヘレーネ・ウーリ著『金曜日のアンナ』(大修館書店)をカバンにしのばせた。
 往復の電車の中でせっせと読み続けたので、『金曜日のアンナ』を読み終えた。この魅力的なタイトルの本は、実は小説風の言語学のやさしい入門書である。しかし、やはり言語学を教えているわけで、知能指数が低く、ボケの進んできた私には、ちとつらい内容であった。
 しかし、言語学の勉強になったことは事実で、世界のさまざまの言語は、元をたどればどんどん絞られていき、結局すべて親戚関係にあるらしい。その分析は、謎解きのようであり、かつ歴史や文化の研究につながるわけで、壮大なスケールである。
 それと、難しい(とっつきにくい)和算小説を書いている私にとって、貴重な啓示となったのは、本のタイトルである。女性の名称をつけると、難解そうな学問書も、どれだけ親近感を覚えることか。ふむふむ、これは役に立つぞ。
 帰りに、また八重洲ブックセンターに寄った。相変わらず、『算聖伝』は平積みに・・・しかし、1冊も減っていなかった。自分で買おうかと思ったが、他に必要な本が3冊あったので、そっちを購入した。これで、福沢諭吉が1人消えて、夏目漱石が3人になった。
 昨日の日記に紹介した瀬山先生の、ホームページのURLが間違っていた。
 もう一度、ここに掲示します。
 数学をたのしむホームページ

4月13日(金)「18個目の書評・・・の風さん」
 5時前に起床して、最寄りの駅を6時12分発の電車で出勤した。
 夕方までトップスピードで突っ走ったが、とても片付けられなかった。
 しかし、今夜は予定があったので、そっちが大事。会社の同僚と電車で名古屋へ出、ツインタワー18Fの某中華レストランへ行った。名目は、講演会の打ち上げ。さまざまの料理を食べながら、さまざまの話をした・・・ので、とても紹介しきれない。とにかく、料理はうまかったし、社内では聞けない話も多くて面白かった。
 言い忘れた話題があったので、ひとつだけ。昨年末に会社を辞めた某女性秘書は、現在某百貨店のオートクチュール<ニナ・リッチ>に勤務していることを初めて知った。希望通りの道を歩んでいる姿に感心すると同時に、励まされた気分になった。・・・すぐ気付けば良かったのだが、そのとき私はニナ・リッチのネクタイをしていたのだ。10年近い昔、超多忙な中、ドイツへ出張することになった私は、ネクタイを用意する間もなく、成田空港の売店でそのネクタイを購入し(1万円ぐらいした記憶が・・・)、あたふたと国際線に乗り込んでいったのだ。その話をするのを忘れた。残念だ。
 遅く帰宅すると、郵便物がどっさり来ていた。その中に、東海大学の悪友(助教授です)が送ってくれた「東海大学新聞」があった。彼が書いてくれた『算聖伝』の書評が載っているのである。通算18個目、『円周率を計算した男』とタイ記録になった。その書評は、ただの書評ではない。書評の体裁をとりながら、新入生へのメッセージにもなっている。「高い志を持て」とね。いやあ、悪友も立派に成長したものだ。
 さらに、京都の知り合いからも封書が来ていて、中から京都新聞のコピーが出てきた。昨今の教育指導要領の改悪に触れたコラムで、私の『円周率を計算した男』が引いてあった。さらに、御茶ノ水女子大学の藤原正彦先生の「これはほとんど犯罪的だ」(文藝春秋五月号)というコメントまで書かれてあり、爽快な気分になった。

4月14日(土)「寝坊すると1日はあっという間か・・・の風さん」
 久々に爆睡し、11時に起床。文句あるか!
 明日からのスケジュールを考えて、やむを得ず、休日出勤した。文句あるか!
 帰宅したら、桃園書房から時代小説アンソロジー『遠き雷鳴』が届いていた。ゲラのチェックもなしで完成したので、少々不安ではある(恐らくコストを徹底的に切り詰めるためだろう)。執筆陣は9人で、私を含めて、著名作家はいない。解説もなく執筆者の紹介もない、不思議な文庫アンソロジーである。はたして売れるのかどうか。本体価格600円である。
 同時に、「大衆文芸」4月号も届いた。やっと随筆「IT技術はこう使いましょう」が掲載された。選任の編集者がついたので、校正は確実で、誤字・脱字いっさいなかった。
「大衆文芸」4月号も『遠き雷鳴』も、これからあちこちへ配らねばならない。
 京都新聞社へインターネットを通じて、12日付け新聞を送っていただけないか、とメールした。
 明日以降のスケジュールは、上のカレンダーを参照してください。
 ・・・と、ここまで書いたところで、もういつもの就寝時刻を過ぎている!

4月15日(日)「爆睡して面白いこともなし・・・の風さん」
 10時45分着のひかりで上京した。
 4時間百円のコインロッカーに荷物を預け、ゆりかもめに乗って、初めて船の科学館へ行った。咸臨丸の50分の1の模型を見るのが目的である。ところが、ここは、船に関するかなり広範囲の知識が得られる博物館で、1時間半ではとても見きれない。咸臨丸の模型を見ると、スクリューが2枚羽根になっていたり、舵輪が後ろ向きについていたりとかが発見だった。また、帆船に関するクイズコーナーがあり、昔もそうだったのかは分からないが、水夫が裸足だったり、船では口笛を吹くのが禁止されていたりとかが興味をひいた。他に、帆船は横風を受けているときが最も速度が速いとか、代表的な和船である弁才船(べさいせん)についても知識が手に入って有意義だった。
 その後、昼にラーメンを食べて、ホテルにチェックインしてから、50分遅れで勉強会に合流した。勉強会は5時には終了してしまい、早々と二次会へ直行した。
 生中1杯と冷酒1杯ですっかり酔ってしまい、三次会がないのを良いことに(ついでにいつもの友人とも会えず、従って銀座のクラブへも行かず)、そのままホテルへ直行し、な、なんと、8時半に就寝してしまった。
 爆睡している間に、ワイフから二度メールが入っていたが、全く気付かず。最初のメールに返事がなかったので、二度目のメールでは「いつまで遊んでいるの!?」と激怒の顔キャラ付きであったが、その返信は翌朝6時に送ることになる。
 なんとも情けない銀座の夜であった。

4月16日(月)「慌てまくった風さんの巻」
 7時半にホテルをチェックアウトして、10時には仙台に着いていた。出張である。
 例によって大きな荷物をコインロッカーへ預け、バスで360円かかる「みやぎの霊園」というところへ直行した。平山諦先生のお墓にお参りするためである。先生の長男の方から、案内メールをいただいていたので、安心して出かけたのだが、現地で迷ってしまった。仕方なく案内所で先生のお墓の位置を教えてもらった。「学会で見えたんですか?」と聞かれた。教え子が学会で仙台に来たときに立ち寄るらしい。
 空は雲ひとつない青空で、そこかしの桜が今を盛りと咲き誇っている。日中の最高気温は平年が14度なのに、今日は20度くらいまで上がっている。暑いほどの陽気だ。
 線香に景気良く火をつけて、手を合わせた。生前お目にかかることはなかったが、『円周率を計算した男』、『算聖伝』完成のお礼を伝えた。実際、平山先生の『和算の歴史』との出会いがなければ、小説家鳴海風のデビューはなかっただろう。
 再び、バスで仙台駅へ戻り、ゆっくりと昼食をとってから、書店で明日行く予定の石巻市渡波にある「サン・ファン・バウティスタ号」のガイドブックをチェックしたら、なんと、毎週火曜日は休館日とある。すぐ携帯で電話して確認すると、確かに明日は休館とのこと。既に、時刻は1時半近かった。午後からは、出張スケジュールがびっしりだったので、大いに焦った。
 めまぐるしく私の頭脳は空転したが、とにかく取材が大事なので、予定変更を決心した。
 すぐさま大学へ電話して、教授とのアポイントメントをキャンセルした。今日の午後の当初計画は今夜と明日に変更することにした。
 とりあえず荷物をコインロッカーから出して、駅近くのホテルにチェックインしてこれを預け、再び駅に戻った。石巻までは、仙石線の快速は1時間に1本しかないのだ。14時1分発のに乗車した。快速でも石巻までは1時間弱かかる。時間的な余裕がたっぷりあれば、石巻から石巻線に乗りかえるのだが、今日はそんなゆとりは全くない。すぐさまタクシーでサン・ファン館へ直行である。
 途中で、ワイフから携帯にメールが届いた。なんと、『円周率を計算した男』の6刷が決定したとのこと。今朝の墓参の霊験が早くも生じたのだろうか。とにかく『算聖伝』は未だに増刷がかからないが、『円周率を計算した男』は今でも着実に売れ続けているのだ。めでたいことである。
 サン・ファン館には、3時20分に着いた。タクシーの運転手に1時間後に来てくれるようにお願いして、急げ、急げ、各種展示物にはほとんど目をくれずに、インスタント・カメラを買って、復元した「サン・ファン・バウティスタ号」へ向かった。
 繋留された「サン・ファン・バウティスタ号」は、近くで見ると、非常に大きい。しかし、エンジンのない純粋は帆船である。しかもオール木造で、内部も当時の姿をかなり忠実に再現してあった。帆を繕ったり、食事している船員たちの姿や、かまどの裏にある、屋外トイレとか(時化が続くと、船員たちは船内で用を足していたとか)、マンガーで飼われているブタとか、いろいろと参考になった。実際に運行してもらえれば、ぎしぎしと木組みが鳴ったりとか、揺れの大きさなども実感できるのだろうが、ま、初級編としては、こんなものか。
 結局、往復5000円のタクシー代と二時間の電車をつないで、6時に仙台に戻った。
 そこからタクシーで大学へ行き、二つの研究室に顔を出し、二人の教授と一緒に、夜の仙台へ繰り出した。老舗の料理屋へ入り、したたかに飲み食いしながら、とりとめのない話を延々とした(これも半ば仕事である)。
 その後、バーへも寄って、ホテルに戻ったのは午前零時少し前である。既に足元もおぼつかない状態だった。

4月17日(火)「また花粉症で苦しい風さんの巻」
 酔ったとはいってもタカが知れているのか、あるいは純米酒のおかげか、今日も二日酔いなんてことはない。7時頃に起床した。しかし、朝から鼻の具合が悪い。重度の花粉症になりそうな予感がする。
 午前中は大学へ行かねばならないが、たっぷり余裕はある。チェックアウトして駅まで歩き、荷物をまたコインロッカーへ預け、ゆっくりと新聞を読みながら朝食をとった。「雅子さま妊娠の兆候」という記事が飛び込んできた。随分早い報道だが、と心配になる。一方で、芸能人の死亡記事も・・・。
 抗アレルギー剤を飲んでも花粉症がひどいので、大学へはタクシーで往復した。三つの研究室を回って、とにかく用事は済ませた。
 仙台駅で名古屋までの新幹線の切符をとり、少し間があったので、「キリン・シティ」というレストランで軽く昼食をとった。ビール「ハーフ&ハーフ」と「ガーリック・トースト」である。ビールは目の前で注いでくれるのだが、最初に思いっきり泡を立てる。これで、ある程度ガス抜きをするのと同時にビールの表面に酸化防止のフタを作るのである。そうしておいて、あと2回ビールを注ぎ足してからやっと客に提供されるのだ。マイルドな味になっていた。家でも試してみよう。「ガーリック・トースト」は香ばしくってうまかった。
 最後に、水で抗アレルギー剤を飲んだ。
 東北新幹線は、ビールの酔いと薬でほとんど寝てしまったが、花粉症はあまりおさまらなかった。東海道新幹線では、持参した本を読みまくった。付箋がわんさとついた。
 帰宅したら、変な報告がひとつあった。例の京都新聞から電話があり、「新聞の注文はメールでなく電話にしてくれ。代金は現金書留か小為替でお願いしたい」とのことだった。それを聞いて大いには首をかしげてしまった。そもそも京都新聞のホームページには、「記事に対するご意見ご感想は」というメールボタンがあるのだ。それを利用して、記事に対する感謝の言葉と、できれば掲載された新聞を送って欲しい(そのお礼に本をお送りする)と
書き送ったのである。それを、きわめて事務的と言うか、木で鼻をくくったような応答をされるとは、心外である。し、しかし、新聞が欲しいので、要求するつもりである。
 花粉症がひどいので、夕食後に最後の手段<抗ヒスタミン剤>を飲んだ。
 そしたら、たちまち効いてきた。やはり、この症状は花粉症だったのだ。

4月19日(木)「うっとうしい24時間血圧測定の巻」
 超多忙の間隙を縫って、昨日の午後4時から24時間血圧測定が始まった。
 数年来、血圧は経過観察下におかれている。降圧剤投与の判断ギリギリを推移している。医師としても本当にギリギリの高血圧症なのか、単に測定時だけとか会社にいる時だけが高いのか判別できないため、こういう手段を命じてきたのだ。ここ数ヶ月は、体重のコントロールはできているが、運動不足は否定できない。いやな予感がするが、とにかく承知した。
 ・・・と幾分軽く応じたのだが、器具を装着されて、うっとうしさに閉口した。何ということはない。通常の血圧測定と原理は一緒である。決してハイテクの血圧センサを装着するわけではない。腕に例の測定用バンドを巻いておき、腰につけた金魚用の電動ポンプから空気を強制的に送るのである。昼間は30分ごと、夜間は1時間ごとである。
 会議中に突然ポンプが唸りだし、左の上腕部がきゅ〜んと締め付けられる。昨夜は9時過ぎに退社したのだが、歩行中でも車の運転中でも容赦はしない。自宅へ着くまでに2度の計測がなされた。
 さすがに入浴中は外してもいいことになっているので、そのときだけはス〜ッとした良い気分だった。就寝前に動き出したので、測定器の表示部を見たら、上が140、下が110というトンでもない数値を出していた。試しに、さらに2回マニュアルで測定してみてもムダだった。ほぼ同じ数値が並んでいる。
 そして、うるさいので枕の下にポンプを隠して寝た。疲れきっている私は平気だったが、ワイフはポンプが動き出すたびに目が覚めたそうである。
 そして、そして、今朝一番の測定も見てみると、やはり異常に高い。こりゃあかんわ、といつになく地方の言葉でため息が出た。
 通勤途上、つまり車を運転中に2度計測器が作動した。
 今日は、午前中は会社の研修センターで3時間も講義をしたのだが、その間、5回ぐらい金魚のポンプが唸った。余計なことなので、黙っていたが、変に思った受講生も多かったろう。
 4時に最後の計測が終わると、私は保健センターへ飛んで行った。
 来週、医師の診察を受けることになるが、きっと降圧剤の投与が開始されるであろう。

4月20日(金)「19個目の書評は、やはりキャノンの涌井さんの巻」
 システム制御情報学会誌4月号が会社に届いて、待望久しかった涌井さんの書評を読むことができた。文章術に長けてきた涌井さんは、ぽきぽきした凄みのある文章で『算聖伝』を解説してくれている。何と言っても、たしか1週間で2回読破してくれて、すぐ書評を書いてくれたはずである。勢いのある書評だ。
 これで、『算聖伝』の書評は通算19個目となり、ついに『円周率を計算した男』を超えた。なかなか売上には直結しないけれども、記念すべき新記録の書評が涌井さんだったというのはうれしいことだ。
 私が多忙でなかなか紹介できないが、結構メールで感想を送ってくれる方たちがおり、そういう人のためにも頑張らねばならない。少しは頑張っている姿を見せよう。
 日中めまぐるしく働いた後、定時で退社して、最寄りの駅へ。名古屋へ出てから、まるで不良女子高生のように、トイレで用意してきた服装に着替え、不要な荷物をコインロッカーへ。マックでお薦めセットを買い、名鉄バスセンターへ向かった。
 私は、これから19時半発の夜行バスで長崎へ向かうのである。出発まで時間があったので、待合所でハンバーガーを頬張った。まるで貧乏学生みたいだ。しかし、仕方ない。私には時間がない。これが最も時間を有効に使った取材旅行なのである。
 最前列に席を確保して、シートにゆったりと身を沈めた。読書するわけにはいかないので、ビデオ放映、黒木瞳と水野美紀の「千里眼」を見た。最初から黒木瞳が悪役なことはバレバレだし、F15のパイロットという設定の水野美紀が全く戦闘機乗りらしくないという、きわめて出来の悪い映画だった。たまには、こういう駄作を見るのも勉強になって良い。
 10時半に早くも消灯となった。

4月21日(土)「長崎は雨、最低から最高・・・の風さん」
 5時過ぎに目が覚めた。カーテンを引いてみると、外は雨。「えー!?」と思わず声が出る。
 携帯電話を取り出して、インターネットに接続し、長崎の天気予報を見てみる。午前中が90%で、午後が60%・・・終日、雨である。くそ、傘も持ってない。まるで昔のドイツ出張みたいな慌ただしさだったからな。とはいえ、長崎は今日も雨だった・・・か。これじゃ、演歌だな。我知らず顔がゆがむ。
 バスは高速道路をひた走っている。知らない道だ。でも、ここはもう九州に違いない。初めての九州である。いい年して、まるで学生旅行みたいな九州への入り方だ。心中に妙な矜持が首をもたげる。ええい、遠からず俺は肩書きを捨て、自由業になるんじゃないか。
 
車中はまだ誰も起きていない。ほとんど無音の世界だ。
 7時20分頃、バスは長崎新地ターミナルに着いた。
 トイレで顔を洗って髭を剃り、さっぱりする。今日は市内を歩き回る計画なので、1日乗車券を購入。500円である。相変わらず外は雨。とりあえず長崎駅まで戻る。コンビニを探してジャンプ傘を購入。600円である。ロイヤルホストに入って、朝食をとった。上は半そでTシャツにソフトジャケットなので、結構寒いくらいだ。携帯メールをワイフと入院中の上司へ送った。
 とにかく計画通りの行動に移る。バスで稲佐山ロープウェイ前まで行く。展望台から長崎市内、長崎湾内、外海に浮かぶ島々を俯瞰して、長崎の全体像を把握する作戦だった。ところが、雨を降らしている雲は、頂上付近をすっぽり覆っていて、とても眼下を眺望できる状態ではなさそうだ。ロープウェイの切符売り場の人に念の為に確認したが、「まず無理でしょう」と言う。やはり今日は最低の取材日和なのだ。
 諦めて第2の予定に移る。バスで大波止(おおはと)へ向かう。観光船に乗って長崎湾内を一周しようというのだ。
 今回の長編小説には、幕末の長崎海軍伝習所が
重要な舞台となる。当時の長崎を想像し、練習艦に乗って長崎を出入りするシーンだって空想しなければならないのだ。
 大波止で降りて、トボトボと港のある方へ歩いて行った。
 リュック一つをかついで、両手が自由になっている取材スタイルを決めていたのに、今は小雨のために傘をさしている。うっとうしい気分だ。
 と、ところが、ようやく港の外れに達したとき、最低の気分は一気に最高の気分へ跳ね上がるような事態が目の前に展開してきたのだ。
「な、なんだあ〜???」港に林立する帆船のマスト、マスト、マスト・・・。ヨットのマスト群ではない。ちゃんとヤードをもった帆船群だ。目路の限りはるか向こうまで何艘並んでいるのか数え切れない。私はその場に立ちすくみ、すぐに走り出したい衝動をおさえて、昨夜買ったカメラを取り出して、とにかくワンショットをおさめた。
 私は再び歩き出した。さっきまでとはまるで違った速さで歩いている。弾むような足取りだ。
 帆船たちはぐんぐん近づいてきた。
 最低の気分は最高の気分へと変わりつつあった。
 私は、2001長崎帆船まつり(19〜23日)のときに偶然取材にやってきたのだった。
 出島・常磐埠頭に接岸している帆船は、手前から、みちのくマカオ、オルサ・マジョーレ、海星、ナジェジュダ、あこがれ、コレアナ、飛帆(フェイファン)そして咸臨丸(かんりんまる)、日本丸、海王丸である。もちろん私はまっしぐらに咸臨丸を目指した。今度の長編では咸臨丸は重要な舞台となる。できれば咸臨丸に乗ってみたいと思っていたが、事前調査でもどうすれば乗れるか、その手段はつかめていなかった。ただ、ハウステンボスへ行けば、姉妹艦である観光丸は見学できそうだと思っていた。まさか、予想もしていなかった長崎港で咸臨丸と出会えるとは! 横浜で日本丸の横のマリタイムミュージアムを見学し、東京の船の科学館で咸臨丸の模型を見学し、石巻のサン・ファン館でサン・ファン・バウティスタ号の内部を詳細に見学してきた私には、もはや残っている見学は復元した咸臨丸そのものしかなかった。
 私は咸臨丸へ突進した。係員に「内部の見学ができるんですよね?」と答えの分かった質問を笑顔でした。す、すると、「体験航海できますから、切符を買ってきてください。10時20分からです。乗船は10時からになります」え〜!!?? 体験航海だって〜!!!!!!!腕時計を見ると、9時40分だ。雨のそぼ降る港には観光客はまばらだ。定員オーバーなんて決してあるはずはないのに、焦った私は、まつり本部のテントまで早足で歩いた。「か、咸臨丸の体験航海をお願いします」料金など確認する気もない。帳面に住所と名前と年齢を書かされた。海へ落ちたときの手がかりにするのだろう。既に記帳している奴らもいた。愛知県と書くのがこそばゆかった。さあ、料金だ。ええい、いくらだってかまうもんか。と、ところが、「え? 500円、たったの?」
 私は乗船時間まで咸臨丸のそばに立ちすくんでいた。
 焦げ茶色に濃く塗装された船体は、周りの美しい帆船に比べ、まさに歴史がかった黒船だった。しかし、前からゆるく3度、5度、7度と傾斜した黒い3本マストが、どんよりした空を背景に重々しく、私には身震いするほど美しかった。
 全長65.8m、539トンである。しかし、これは復元した咸臨丸であり、実際の咸臨丸の諸元については諸説あって定説はない。ざっと言えば、全長は50mとやや短く、総トン数も380トンと小ぶりである。当時最新鋭の蒸気艦だったとはいえ、たった100馬力の蒸気機関でスクリューを回していたのだ。15億円で復元したという咸臨丸には、950馬力のディーゼルエンジンが載っている。(つづく)

 とうとう咸臨丸に乗ることが出来た。大きな船をあまり見たことがない当時の人々にとって、これは巨船だったのではないだろうか。荒れた外海を航海したことがない人にとっては、大きな安心感を覚え、「これなら唐天竺、イスパニアだろうがメリケンだろうが、地球の裏側まで行けるぞ!」と叫んだのではないだろうか。
 艫(とも)の方にまわると、船の科学館で見た模型と同じ位置に舵輪(もちろん飾りの)があった。これを操作するときは、舵手は後ろを向いていることになる。背後に羅針盤も据えてある。これらの配置には疑問があるが、そのうち解決しなければなるまい。
 船上にはサン・ファン号と同様にロープが多い。そして、船体はほとんど木製だ。マストもである。メインマストは甲板上約30メートルと、サン・ファン号と同じ規模である。左舷を通って、船首部分へ回った。大きく反り返った舳先がある。立っても前方は見えない。この船には実際にはなかった操縦室が前部にある。見学はできなかったが、最新鋭の装備がされているようだ。むろんレーダーもある。
 再び船尾に戻って、昔はなかった船室に入ってみる。そこはサロン風の部屋だった。階段を降りて客室を見学する。これも実際の咸臨丸とはだいぶ違う。個室がたくさん作ってある。ひとつひとつの部屋には咸臨丸ゆかりの人々の写真が飾ってある。最初に目に飛び込んできたのはジョン万次郎だった。そして、木村摂津守喜毅(よしたけ)、赤松大三郎もある。まさに太平洋横断チームである。ジョン・ブルック大尉の写真まであって、うれしくなる。さすがに海の男たちは、太平洋横断の最大の貢献者への敬意を忘れていないのだ。そして、長編の主人公となる小野友五郎の写真もあった。勝海舟や福沢諭吉など、今では飾りでしかない。
 個室の窓はすべて円形で、外を見れば、海面が迫ってくる。さらに階下があるのだが、見学はできなかった。本物は荷物室と機関室と大砲が備えてあったのだと思う。この復元船を見学してもだいぶ違っているのではないか。
 船が動き出した。穏やかな長崎湾へすべり出たのだ。エンジン音などほとんど聞こえない。往時は、中央部にある煙突から黒煙を吐きながら、雄々しく肩をゆするように威厳に満ちた振動をともないながら岸壁を離れて行ったのではないだろうか。
 ゆっくりとした1時間のクルージングだった。長崎湾の入り口、三菱長崎造船所香焼工場のあたりまで行って、戻ってきただけだった。その間に、船首のフライング・ジブと中央のフォア・トライスルという2枚のセールを上げてくれたり、メイン・マストへ登って見せてくれたり、ロープの結び方、手旗信号のデモなどがあった。海はあくまでも穏やかで、小雨こそ降ってはいたけれど、昂ぶっている私の体に風は心地よかった。行く手を競うようにカモメが船体を横切って行く。
 この興奮を伝えたくて、携帯電話で家へ電話してみたが留守だった。
 船を降りてからもしばらく私は咸臨丸を岸壁から眺めていた。美しい船体だった。品川沖を出航してから、途中どこへも寄港せず、一気にサンフランシスコまでたどり着いた彼らが、ようやく大地を踏みしめたときの感慨はどうだったろうか。航海中はほとんど海は荒れ狂っていたという。咸臨丸に向かって「よく俺たちを無事にメリケンまで送り届けてくれたな」と目を細めたのではなかろうか。
 比較の意味で、あこがれ、ナジェジュダ、海星の内部見学もした。鋼鉄のマストを持ち、ビジネス・ホテルのような内装をしたこれらの船は、帆船とはいっても、咸臨丸とは趣きが違う。
 昼近かったので、休憩も兼ねて出島埠頭に並ぶ「海屋」というレストランに入った。600円のフライ定食は揚げたてで美味かった。生ビールの小が200円だったので、税込み840円の昼食である。観光地なのに物価が安い気がする。
 これで1日の半分は終わってしまったが、予想外の収穫である。
 再び傘をさしながらトボトボと歩き出した。目指すは出島オランダ屋敷である。つまり、このあたりは当時は海で、その後埋め立てられた場所なのだ。
 ここで、私はまた思わぬ収穫を得ることになった。(つづく)

 目指したのは「出島和蘭商館跡」である。
 しばらく傘をさしたままトボトボと歩いて行った。出島電停を横切って、中島川のほとりに公園がある・・・と思ったら、そこが「出島和蘭商館跡」だった。看板が立っていて、読んでみると、かつての出島をできるだけ当時の姿で復元する計画だという。完成予定は2010年である。私は、ちょうど昔の海だったところから、いきなり出島に渡ったのだった。
 まだ半分も復元は終わっていないが、おすすめの順路は見学に2時間かかるという。私は一番船船頭部屋から始まって、商館長次席の部屋、料理部屋と回り始めた。遺構の発掘を始めとして、当時の風俗を伝える絵画や甲比丹が作ってオランダへ持ちかえった出島の模型、長崎市内に残る古い建築物の分析と、様々のデータを元にして、できるだけ忠実に復元しようとしている姿に感銘した。
 有料の資料館に展示してある品々も、小説のネタに使えそうなモノが多く、目が釘付けになる。オランダ商館員たちやオランダ通詞らの日常生活も知ることができて収穫は多い。
 なぜ長崎海軍伝習所が重要な舞台なのに、ここ出島での取材が意義があるかというと、中島川をわたってすぐの対岸に海軍伝習所があったからである。そして、オランダ人教官らはここ出島で生活していた。勤勉な伝習生らは講義が終わっても出島へ渡って、教官らの指導を受けていたのだ。
 ここでも写真を何枚か撮った。
 ここを見学している最中に、今朝送ったメールの返信が、ワイフと上司から届いている。
 疲れたので休憩所に寄ってコーヒーを飲もうとしたら、そこで結婚披露宴をしている人たちがいた。列席者の中には昔のオランダ人みたいな服装をしている人もいて、どうやらここの関係者らしい。外国人女性の入国は、たとえ出島でも許されなかったので、当時もこういった光景は見られなかった。
 ゆっくり見ていたら、だいぶ時間が過ぎてしまった。
 午後7時の飛行機で名古屋へ帰るので、リムジンバスの時間も考慮して、取材に残された時間はもうあまりない。
 再びバスで可能な限り市内を回ることにする。
 オランダ坂を登ってみた。異国情緒があって素敵な所だ。しかし、小説の舞台には使えそうもない。なぜなら、幕末には見られなかった建築物と風景だからだ。
 大浦天主堂まで行ってみた。立派な天主堂である。周辺の建物も雰囲気たっぷりの異国情緒で、異人館が多い神戸をはるかにしのぐ。しかし、小説の舞台には使えそうもなかった。
 だめだ。もう時間がない。
 見残したポイントは非常に多いが、仕方がない。
 バスで長崎駅まで出て、県営バスの空港リムジンに乗り換えて、長崎空港へと向かった。
 遠ざかる稲佐山の頂上は相変わらず雲に覆われている。
 約1時間で海上に浮かぶ長崎空港に着いた。
 土産物を買い、来たときよりもはるかに楽な手段(JAS472便、MD−90、166席)で名古屋へ戻った。

 午後10時半ころ、自宅に着いた。
 昨夜7時半に名古屋を出発したのだから、強行軍の長崎取材旅行だった。
 留守中に、京都新聞の論説委員の方から、ご丁寧な手紙が届いていた。私のメールを読んでくださり、独自に掲載紙を送って下さったのだ。我が家に失礼な電話をよこした人物のことはご存知ないことが、後でメール交換して判明した。私は宣言通り『算聖伝』を論説委員の方にお送りした。
 また、桃園書房から、発注してあったアンソロジー文庫「遠き雷鳴」30冊が届いていた。お礼代わりに何人かの方たちに配ることになる。

4月23日(月)「いよいよ執筆専念か・・・の風さん」
 トランセンドが発刊となり、これで今年前半のアウトプットはすべて終了である。
 取材はまだ残っているが、秋の長編出版へ向けて、執筆に専念できる体制がほぼ整った。上司の代行業務は想像以上にきついけれども、気長にやっていかなければならない。

4月25日(水)「は、歯が・・・の風さん」
 目が覚めたら6時20分だった。寝坊である。しかも今日は8時から会議が待っている。自主的な早起きとは違うのだ。慌てて飛び起きて、トイレも入らず、朝食も食べず、ネクタイも締めずにバタバタと家を出た。6時30分。な〜んだ、10分で出られるんだ。
 1日中、目の回るような忙しさで仕事をこなし、夕方定時頃、ホッとひといきのつもりで、キャラメルを口に入れた。甘いものが欲しかったのだ。しかもキャラメルは大粒。
 気持ちが焦っているときは、つい行動が軽率になる。早く飲み込みたくて、その大粒のキャラメルを噛んでいたら、グキッという音と共に、左下奥歯の詰め物が・・・とれた。並んで、二つもである。舌で探ると大きな穴があいている。
 急いで歯科医に電話して、6時から診てもらう約束をした。
 あたふたと外出した。
「これでは、またとれる心配があります。今度は銀歯にしましょう」
 と言われたが、
「まもなく連休に入るので、今日はとりあえず、とれたヤツを入れておいてください」
 抵抗して、何とか元に戻してもらった。大事にしなければ・・・。
 再び会社に戻って、少し仕事をしてから、思い切って、退社して床屋へ行った。連休中の執筆活動に支障が出ないようにするためだ。

4月26日(木)「とうとう薬が手放せない半病人・・・の風さん」
 昨夜はばたばたして準備が十分ではなかったので、いったん本社に出て、講義の下準備をしてから、研修センターへ車で出かけた。
 24時間血圧検査はしていないけれども、何となく気分は冴えない。講義中は欠席者のためにビデオカメラが回っている。それで、下手な冗談が言えないのである。
 休憩後に、カメラを止めてもらい、普段の表情になった私は、用意してあった「トランセンド」と文庫「遠き雷鳴」と『算聖伝』宣伝ファイルを持ち出して、得意の「銀座の女」ネタを飛ばした。ほとんどの受講生が呆れ返っていた。
 再び、真面目に講義を開始したが、同じ真面目な講義でも、ひとつ吹っ切れた私の舌は意外と滑らかになり、その後の1時間半は、比較的楽に話すことができた。
 昼食後、本社に戻り、2時からの医師の診察を受けた。24時間血圧検査ですっかり観念していた私は、薬をもらって帰ることしか頭になかった。
 データを見せられた。
「高いときで180くらいありますね」
「あ、それは、先週、研修センターで講義をしていた時間帯です」
「朝が結構高いですね」
「自分でも見て確認していました」
「とにかく、下だけでなく、上も高いですから、心臓の負担を減らす意味でも、薬を飲んだ方がいいですよ」
「はい。分かりました」
 明日から、1日早く連休に突入する私は、何としてでも仕事を片付けておかなければならなかった。
 しかし、仕事は山のように残っていた。
 結局、10時までかかって、ようやく退社した。
 半日損した気分だった。

4月28日(土)「今年2度目のトレーニング・・・の風さん」
 結局、昨日はたまった疲労を抜くために、寝てばかりの1日だった。夜は、長男のバースデーを祝った。しかし、長男はいまだにギプスでケンケンしながら部屋の中をウロチョロしている。
 そして、今日はまともな執筆の第1日目ということで早朝から机に向かった。しかし、最初のシーンでつまづいた。大事な冒頭なので、読者の興味を完全につかんではなさない書き出しにしなければならない。あれこれと資料を読んだり、クマのように歩き回ったりしながら、悶々としていた。
 ・・・で、悩んでばかりでは体に悪いので、体育館へ行くことにした。やっと今年2度目である。木曜日の午後から降圧剤を飲み出しているので、その効果も確認できるはずだ。
 入念にストレッチをして、ステアマスター10分、腹筋40回、背筋30回、ラットプルダウン20回、レッグプレス各30回、ショルダープレス20回、カーフレイズ50回・・・と軽くこなし、小休憩後に血圧測定してみた。すると、ほとんど同じ運動量だった1ヶ月前と比較して、最高141→116、最低88→76、と低い値を示した。昨年までは、運動後はだいたい低い値を示すので、これで薬効がどうのこうのと言えるものではないが、少なくとも高くはなかったわけだ。
 帰宅後も執筆は進まず、おまけにパソコンも相変わらず不調(ISDN接続できず)で、さっさと就寝した。

4月30日(月)「こんな結婚記念日見たことないそうな・・・の風さん」
 今日は結婚記念日である。しかも子供たちも休日。昨年は40連休中で、かつ会社の同窓会のごときものが名古屋のホテルであったため、前泊で結婚記念日もお祝いできた。
 今年は、基本的に執筆がピンチなので、そういう余裕はない。昨日、冒頭シーンも良いアイデアが浮かんだので、次のシーンの検討にも着手している。・・・で、今年の結婚記念日は、特にイベントはなし、となった。
 夕方、トレーニングに出かけた。今日は、右膝が何となく笑っているので、レッグプレスとカーフレイズを中止して、代わりにレッグカール20回、レッグエクステンション20回とバーチカルローイング20回をこなしてから、血圧測定にのぞんだ。すると、119と74である。2回続けて低い値が出たことになる。
 夕食はワイフが好きなピザをピザ*******からとり、サンルームで食べた。調子に乗ってチューハイを飲んだら、案の定、猛烈に酔ってしまった。ええい、しかたねえ、というわけで、PS2のリッジレーサーを半年ぶりぐらいでやった。先ず、ベーシックの4レースをすべてトップでクリアした後、エクストラに挑んだが、2度のトライにもかかわらず、クリアできなかった。そのとき、ワイフはソファにもたれて居眠りしていた。ワイフもチューハイで酔いつぶれているのである。
 リッジレーサーは心残りであるが、そろそろ就寝時刻なので、「先に寝るよ」と言って、ワイフをリビングに置き去りにして寝室へ向かった。
 ワイフいわく「こんな結婚記念日見たことない」そうだ。うん、確かにそうかもしれない。

 気まぐれ日記 01年5月へつづく
 
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