01年2月の分はここ
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2001年3月 お薦めマーク | |||||||
1 | 木 |
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2 | 金 | 新藤風さんの読み方判明・・・の風さん | |||||
3 | 土 | ||||||
4 | 日 | ||||||
5 | 月 | 頭痛も吹っ飛ぶ催促の手紙・・・の風さん | |||||
6 | 火 | 何やってんだか、またまた半徹夜・・・の風さん | |||||
7 | 水 | ||||||
8 | 木 | また朝日新聞夕刊に出たらしい・・・の風さん | |||||
9 | 金 | 第2回海と月の会・・・の風さん | |||||
10 | 土 | ||||||
11 | 日 | 元気出せよ・・・の風さん | |||||
12 | 月 | メールを二つ・・・の風さん | |||||
13 | 火 | ||||||
14 | 水 | ||||||
15 | 木 | 慌ただしい上京・・・の風さん | |||||
16 | 金 | ||||||
17 | 土 | 何とかピンチを脱出・・・の風さん | |||||
18 | 日 | ||||||
19 | 月 | ||||||
20 | 火 | ||||||
21 | 水 | ||||||
22 | 木 | ||||||
23 | 金 | ||||||
24 | 土 | 16個目の書評・・・の風さん | |||||
25 | 日 | 久々の雨でひと息・・・の風さん | |||||
26 | 月 | 雨が上がればまた・・・の風さん | |||||
27 | 火 | ロングリリーフは続く?・・・の風さん | |||||
28 | 水 | ||||||
29 | 木 | うれしい日・・・の風さん | |||||
30 | 金 | ||||||
31 | 土 | ||||||
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3月2日(金)「新藤風さんの読み方判明・・・の風さん」
2月19日の日記で紹介したベルリン国際映画祭で新人賞を受賞した新藤風監督が、今朝の中日新聞に写真入で紹介されていた。それで、名前の読み方が判明した。「しんどうかぜ」と読むのである。新藤兼人監督のお孫さんに当たるこの女性の名前は、兼人監督が命名したそうで、通称「ふうちゃん」というから笑ってしまう。そう。私は「ふうさん」である。いつか「ふうちゃん」と「ふうさん」は出会うことがあるのだろうか。
勤務先のある市立美術館に寄って、知人の属する陶芸協会主催の陶芸展を見学してきた。それぞれ職業を持つ素人集団の陶芸展とのことだが、どうしてどうして、立派な作品が多かった。中には陶芸とは思えないような自由な作品もあって楽しめた。知人の作品はどっしりした下半身が特徴の陶人形と抹茶茶碗3点である。この茶碗とよく似た茶碗をいただいており、確かにその茶碗でいただいた抹茶は格別な味がした気がする。他に、葉っぱのち密な模様を浮き上がらせた「木の葉天目壷」や、力強くて重量感もある「阿弥陀仏 経文 陶板」が印象に残った。
勤務先といえば、社内の知人から興味深い話を聞いた。東京の有名なお医者さんが、ある会合で、うちの会社の会長に「お宅の会社には、面白い小説を書く社員がいるんだねえ」と言って、『算聖伝』をお渡ししたというのである。私の正体はむろん会長にはばれているが、この件で、そのうちに何か言ってくるかもしれない。いずれにせよ、この某お医者さん、所在を調べて礼状を書かねばならない。
3月5日(月)「頭痛も吹っ飛ぶ催促の手紙・・・の風さん」
花粉のせいばかりではないけれど、体調が狂いがちである。夕べもちょっと寝不足かな、といったぐらいだったが(今朝は6時起きで、睡眠時間は5時間未満)、午後から猛烈に頭が痛くなってきた。花粉症対策としては、朝晩アレルギー予防の薬を飲んでいるので、何とかおさまってはいる。それでも頭痛が起きるのは、先日の出張帰りのときと同じで、ちょっとした過労が(わずかな睡眠不足でも)すぐ症状となって発現するのだろう。
頭痛薬を飲まないで、退社時間まで我慢して、何とか自分の車を運転して、やっと帰宅でき、このまま夕食をとったら風呂に入って寝てしまおう、と思いつつダイニング・ルームにフラフラと体を運んだと思いねえ(まるで落語調だ)。
テーブルの上に乗っている1通の封書を発見して、私はドキッとした。なぜなら、年末に刊行を約束している出版社の手紙だったからだ。早速封を切って、中身をあらためてみると「督促するわけではありませんが、企画会議も近いので・・・」そろそろレジュメを出してくれという正に督促状だった。
さっさと寝てしまうつもりだった私の頭痛はどこかへ飛んでしまい、食後まっすぐ書斎へ直行し、資料をかき集めてしばし沈思黙考した挙句、出版社へ携帯電話とパソコンを使ってFAXを送った。「15日の上京時に持参してご説明します」と。また就寝時間が遅くなってしまった。
3月6日(火)「何やってんだか、またまた半徹夜・・・の風さん」
今日も午後から頭痛が始まった。それでも、気になることは片付けたかったので、昨日手紙を寄越した出版社に電話してみた。すると、件の編集者がすぐ出て、「FAXいただきましたが、その日は黒岩重吾氏の喜寿のお祝いで上方へ出張するので会えません」とのこと。結局、編集者が東京へ帰る17日に名古屋で途中下車してもらい、そこで会うことにした。
その後も、かろうじて頭痛と戦いながら仕事をして、比較的早い時間で帰宅したが、どうにも我慢ができず、食後、頭痛薬を飲んでリビングで仮眠したら、そのまま午前零時を回って目が覚めた。いけねえ! さあ、これから、どうするか・・・だ。とりあえずビール・・・じゃなかった、入浴することにした。
昨日は、もうひとつショッキングな手紙が来ていた。私が出した手紙である。つまり、宛先人が引っ越してだいぶ月日が経っているため、転送できずに戻ってきたのである。電子メールで、知人に最新の宛先を質問しておいたら、今日、その返事が来ていた。
入浴後、書斎に入って、カセットテープの落語を聞いてから、会社の仕事をして(1時間半ぐらい)、それから手紙の書き直しやら何やらをして、ようやくすべて終了したら、既に午前5時を回っていた。それでも、1時間半くらいは寝られそうだったので、とにかくベッドにもぐりこんだ。
7時に起床した。今朝と夕べの睡眠時間を足しても、6時間に満たない。
3月8日(木)「また朝日新聞夕刊に出たらしい・・・の風さん」
出社してメールチェックしたら、キャノンの涌井さんから、予定通り学会誌「システム/制御/情報」4月号に『算聖伝』の書評が掲載されるとの連絡があった。
別の知人からは、GIFファイル付きで、「昨日の地元の朝日新聞夕刊に風さんが出ていたよ」とのメールがあった。ファイルを開いてみたら、例の朝日新聞東京本社で受けた取材の記事で、関東地区限定版だったものを、地元のために再掲載したようだ。確かに私の紹介の部分が少し変わっていて、住んでいる地名が追記されていた。これは、朝日新聞本社の記者氏か秋田支局の記者氏が仕掛けたのではないか、と推定される。いずれにせよ、ありがたいことだ。ナンマイダブ・・・おっと念仏を唱えちゃいけねえ。感謝感謝m(__)m
2日の日記の中で、『算聖伝』を私の勤務先の会長に紹介してくださったお医者さんについて、某先生にお尋ねメールを昨夜送っておいたところ、実にご丁寧な返信メールが届いていた。それによって、このお医者さんのことがよく分かったので、礼状を出すことにした。
明日は、第2回「海と月の会」である。楽しみだ。
3月9日(金)「第2回海と月の会・・・の風さん」
朝日新聞夕刊の記事のコピーが勤務先の役員室に貼り出されているそうだ。社内売名活動は休止状態にしているのだが、結構トップの方々に面白がられているのかも。
半田の和会席「華晄(はなあかり)」で第2回「海と月の会」を開催した。
会社の飲み会では飲まない私も今日は飲むので、有料道路を110km/hでぶっ飛ばして帰宅し、電車に乗り換えて出動した。知多半田駅で@@さんと合流。相変わらず目立つ女性だ。「このたびは、おめでとうございます」「ありがとございますう」京都のアクセントで返ってくる。「中日の夕刊に出てましたね」「ええ」「年齢まで出ていましたね」「もう余計なことまで、書きはりますから、迷惑してます。無言電話やらおかしな手紙やら怖いですわ。鳴海さんも朝日に出てはりましたやろ。そんなことありまへんか?」「私は好青年だから大丈夫です」「じゃ、なんですの?あたしは嫌われ者だと・・・!」
二人でタクシーで華晄に向かった。
華晄は落ち着いた雰囲気で、数奇屋造りとでもいうのか、ステキな店だった。さっそくオーナー氏が満面の笑顔で迎えてくれた。昨夜、今回の出席メンバーについてFAXしておいたので、興味を持ってくれたらしい。何しろ、自他ともに認める読書家とのことだ。
既にジュブナイル小説の鹿原育(かのはらいく)さんが来て待っていた。今夜の最年少作家である(悔しいが私が最年長だ)。とにかく、私たちは初対面である。しばらくして、児童文学の山本悦子さんがご主人に送られて到着した。少女のような風貌の方だ。お二人とも、私が@@さんと馬鹿話をしているのを黙って(呆れて)聞いている。
オーナー氏と山本さん鹿原さんに『算聖伝』をプレゼントした。もう何冊プレゼントしたろうか。おそらく100冊は優に越えているだろう。山本さんからも『ぼくとカジババのめだまやき戦争』をいただいた。これも傑作に違いない。うれしい。
一番近い秋月さんが、最後に到着した。オーナー氏からビールの差し入れがあり、座が盛り上がった。ここで、暴露話がひとつ。オーナー氏の息子さんは、落語家の三遊亭とん馬なのだが(もちろん真打)、秋月さんは高校で同じクラスだった。オーナー氏は全く知らなかったそうで、偶然とは恐ろしい。
会席料理に舌鼓を打ちながら、業界の話題やら文学論やら個人の話やら延々としゃべり続け、閉店時間になっても居続けたため、最後は店員に催促されて追い出された。既に、オーナー氏の姿は見えなかった。嫌われたのかも知れぬ。
出版界はやはり東京が中心だろう。地方在住作家としては、こういった会合は情報交換には貴重である。ぜひ第3回へとつなげていきたい。
3月11日(日)「元気出せよ・・・の風さん」
昨日、夕刊を見たら、吉川英治文学新人賞受賞の記事が載っていた。野沢尚氏(40)である。ドラマや映画「その男、狂暴につき」の脚本でも有名。97年には江戸川乱歩賞受賞か。いやあ、これだけ実力あったら、新人賞じゃないぞ、というのはヒガミか。とにかく脱帽、と。
2月28日の気まぐれ日記で紹介した才気あふれる知人からメールが届いた。
先日は遠路はるばる,そしてご多忙のところ上京してくれてありがとうございました.日立は大変だったようですね,
10年くらい前にドイツに主張したとき(まだ若かったけど)、連日無理をしていて(超短時間睡眠の連続で)帰国前にメニエール状態になったのを思い出します。あのときは、帰りにパリで1日遊ぼうと計画していました。パリ行きの便で知り合ったIBMの女性と偶然ホテルが真向かいで、ナンパされそうになったのだけど、フラフラしながらもホテルから消えていて無事(?)でした。
HPを覗きましたら過分な?コメント付きで28日のイベントが記載されてまして,楽しんで読ませてもらいました.
「んだな,秋田さも行ってみでよなー,呼んでければえーな,,」
(しかし訳のわからない講演で失礼しました.やや反省)
次年度の八戸高専、秋田大学の学外講演者の最有力候補は、***に勤務しているユニークな人物です。そう。あなたです! この運命から逃れることはできません。
最後に、次のようなPS(追伸)もついていた。
そうそう,そう言えば私が学生時代にロックバンド?(古い響き)をやってたのはご存知ですね,,
私はギター,そしてそこでVocalをやっていたのが当時文学部のKさんでしたが,彼は現在東北F大学の教授なんです.数年前には樺太での北方遺跡発掘の話題でニュースステーションにも出ていて,「あーKさん活躍してるな,」と思ってました.
ところがある日のTVニュースで,例の宮城での発掘捏造問題で後に雲隠れする人物の隣で陳謝しているKさんがいるではないですか,,
本件でKさんはいわば被害者でもありますが,なんとも気の毒でした.大学時代の友人知人もいろんな道を歩んでいます,,
私もいろんな道を歩んでいる1人かな。しかし、充実した楽しい人生を歩むのも結構体力はいるなあ。夕べはDVDで「シックスセンス」を鑑賞(2回目)してから寝た。今朝は7時半起床で、睡眠時間は4時間半。メニエールが出るかなと、ちと不安。
3月12日(月)「メールを二つ・・・の風さん」
横浜で会った友人OmOから、うらやましい限りのメール。
風様
仙台に行ってきました。法事でカミさんの実家に一泊しただけですが、今その帰りの新幹線の車中です。仙台は3月というのに雪模様でうっすら街は雪化粧でした。
先週は研究室の合宿で菅平にて2泊してきました。夜は研究企画書の発表会とかやるのですが、昼間は完全に屋外ゼミで,リフト待ちならぬリフトが人待ち状態のなか滑りまくって来ました。この平日スキーの味を覚えると、週末なんておよそ行く気になれません。リフト1本分一気滑りが基本。場合によっては3本分一気すべりとかやっちゃったりするわけです。
OmO
今年は本当に寒い冬だなあ。でも、大学の先生って、そんなに遊んでいていいのか?
同じ日に、先日東京で会った知人TK氏からも面白いメールが届いた。
風さんへ TKです.
「アリババと40人の盗賊」 これは息子が学芸会でやったネタですが,主人公が5人いるんです,,
アリババ,イリババ,ウリババ,エリババ,オリババ,,,
結局児童に役を割り振るには主役を増やすしかない,,
ちなみに,息子は「町の人その5」でした.
それならアリババを10人にしてくれればコレババくらい当たったかもしれないのに,,,トホホですね.
このときに,何を思ったか「サイババと40人の皇族」とやったのですが,周囲にはあまり受けず,後日エイガアルというベンチャー会社をやっている@@(伏字:鳴海)さんという女性社長が,「そのネタもらっていいですか?」といったのが唯一のリアクションです.彼女編集者出身なので共鳴するところ多し.
ではまた. 執筆がんばってください.
OmOもTK氏も、同窓で、%%%に就職し、博士号を取得したところまで一緒。ただし、OmOは中途退社し、今は東海大学の助教授である。人生は、予想がつかない展開が待っている。だから、面白い。とはいえ、よく考えてみれば、何でも、その原因は自分で作っているんだけどね。
3月15日(木)「慌ただしい上京・・・の風さん」
勤務先の上司が急遽入院してしまったので、その穴を埋めるべく、皆で分担協力している。しかし、その任は重く、つらい。平均して1時間早く出社し、2時間遅く退社している。つまり、これまでよりも3時間私生活を余分に割いているわけだ。上司の重責を感じる。
しかし、毎月15日は、私にとっては重要な日なので、何とか調整して有休を取らしてもらった。
いくつかの目的を抱いて家を出た。
11時5分発のひかりで東京には13時に着いた。そのまま新宿へ向かい、小田急線を乗り継いで、代々木八幡へ。途中で、森一歩先生と合流した。森先生から日本児童文芸家協会小田原支部で出している同人誌『小田原児童文芸』第12号をいただいた。森先生は支部の顧問をされている。当地の山本悦子さんの話をしたら、「聞いたことのある名前だな」とおっしゃっていた。同人誌は読んだら、山本さんへ送ってあげよう。
伊東昌輝先生に日本文芸家協会への入会手続きをしていることを報告した。これは、奥様の平岩弓枝先生が理事をされているので、伝えておく必要があったのだ。
毎月15日の勉強会のときには、新しい『大衆文芸』が届くので、自分の作品が載っているときはたくさんもらってくる。今回は、随筆が載るはずだったのに、なぜかなかった。ボツかもしれぬ。目的のひとつが消滅した。
勉強会そのものは大いに収穫があった。毎月朗読している喜安さんの作品によって、今回は多くの啓示を受けた。それは小説における新味である。自分の次作への大きなヒントが得られたのである。しっかりメモし、あとで資料をチェックするつもりだ。
予定では、来月アンソロジーを出してくれるT園書房の編集長と、勉強会の後で会えることになっていたが、都合で流れてしまった。それで、執筆を焦っている私は、2次会を遠慮して、すぐさま帰宅することにした。早く資料チェックし、17日のS学館の編集長との打合せに間に合わせなければならない。「今日は、これで失礼します」と頭を下げたら、仲間のU女史から、「これから銀座ですか?」と言われてしまった。そう。1月15日に、私はU女史と共に銀座へ向かったのだった。このU女史、最近転勤したそうで、今日も西宮市からの参加である。私よりも遠い。珍しい人だ。
東京駅で最も早い新幹線に指定を変更したのだが、それは「のぞみ」だった。18時52分発ののぞみに乗り込んだ。
持参したノートパソコンでの作業はできなかったが、往復する間に、薄いハードカバーを1冊読了した。
3月17日(土)「何とかピンチを脱出・・・の風さん」
東京から帰った日、帰宅すると、文芸評論家磯貝勝太郎さんから奥様の快気祝が届いていた。くも膜下出血で倒れられたときは、たいへん心配し、情報網を駆使して様子を聞いていたが、今では家事もできるようになったとのこと。まさに奇跡的な回復だったようだ。本当に良かった。
磯貝さんのピンチに比ぶべくもないが、私はちょっとしたピンチであった。約束した書き下ろしの督促を受けていて、今日は、大阪出張(黒岩重吾氏の喜寿祝い出席)帰りの編集者と名古屋で会う約束をしていた。
昨夜、やや早めに帰宅した私は、疲労のためにしばらく仮眠し、それから自室へこもって、今日提出するプロットの作成作業にとりかかった。
やはり、15日の勉強会で得たヒントが、今日のピンチを救った。今朝の4時ころまでかかったが、A4用紙3枚にまとめることができた。古いネタではあるが、どうにか新味を入れることができたのである。
その後、入浴し、約2時間半の睡眠をとってから、名古屋へ出かけた。
一昨日の夜から花粉症がひどくて、抗アレルギー剤から鼻炎カプセル、漢方薬と続けざまに摂取している。つらい季節である。
11時にS学館の編集者と落ち合い、ツインタワー12階の喫茶室で、打ち合わせた。私のプロット、特に新味については気に入ってくれ、何とか11月末までに出版しようということになった。なかなか厳しい日程ではある。
あとは限りない業界内の雑談である。こういう話についていけるようになったということは、私もどうやら業界人に近付いてきたようだ。
帰宅したらどっと睡魔が襲ってきたので、また仮眠し、夕食後、久々に気まぐれ日記を書いているわけだ。
3月24日(土)「16個目の書評・・・の風さん」
ほぼ毎日6時半に自宅を出て、帰宅は9時より早いことはない。仕事に忙殺されながら、一方で花粉症との壮絶な戦い(ひたすら体内に薬を注入)を続けていた。そういう1週間であったが、気まぐれ日記に書けないことばかりではなかった。
日本文藝家協会から正式に入会承認通知があり、入会金および会費も入金したので、これで晴れて日本文藝家協会会員となった。平成13年度「文芸年鑑」にも名前が載る。著書が2冊になったら入会しようと決めていたので、長年の希望がまたひとつかなったわけである。
社内雑誌「トランセンド」のゲラが出来てきたので、あちこち修正して事務局へ渡した。いかにも歴史に強そうな印象を与える読物である。これで、また社内に私の存在が異彩を放つことになるだろう。実際は、二足のわらじなんて履いていないのに、虚像が膨らんで行く。
大阪教育大学名誉教授の中村先生からのお手紙で、『算聖伝』の書評掲載を知った。16個目の書評掲載誌は、日本評論社の「数学セミナー」である。例によって、同社の編集長にメールで同誌の送付をお願いしてあったが、さっそく届いた。書評を書いてくださったのは、早稲田大学社会科学部の小山慶太先生である。拙著を含めて3冊紹介されていて、いずれも卓抜な文章で読まされる。このような先生に選ばれて光栄である。ちなみに、他の2冊というのは、『私の死亡記事』(文藝春秋社)、『文明の主役ーエナルギーと人間の物語』(森本哲郎 新潮社)である。
書評について言えば、あと二つ確定しているので、通算18個が確定したことになる。『円周率を計算した男』に並ぶのである。売れ行きはパッとしない『算聖伝』だが、どうにか書評は『円周率を計算した男』に並ぶ。
今朝の新聞に芸術選奨の受賞者が発表されていた。残念ながら受賞は逃したが、また良い作品を書けば選考対象になるのだから(つまりリーチがかかっているのだから)と思っている。・・・でも、今回ので受賞していたら、受賞式で吉永小百合さんに会えたかと思うと、そっちの方が残念ではある。
3月25日(日)「久々の雨でひと息・・・の風さん」
花粉まみれの日々が続いていたが、久々に小雨がぱらついて、目覚めたときから気分が違う。鼻のぐずつきがないのである。爽快! それでも、念のために、朝食後に抗アレルギー剤を飲んでおいた。そしたら、それで、1日もつのである。やはり違う。
給油の為にコルサで出、海岸線を走ってみると、ぱらつく雨の中(まだ大潮ではないだろうが)もう潮干狩りに精を出している人がいた。確か、異常気象か何かのせいで、稚貝が死んで、今年は不作のはずだが・・・。実は、貝は大好物で、おまけに潮干狩りのできる海のすぐ近くに住んでいながら(もう越してきて、かれこれ10年は経過したが)、私は当地で潮干狩りをしたことが一度もない。いつも執筆やら何やらに追われているせいだ。
本当に気分が良かったので、今日は焦る気持ちを抑えながら、雑用もこなした。
執筆のために、インターネットで調べものをして、大量にプリントアウトした。気にしていた手紙も3通書いた。FAXもこれから2通出す(準備はできた)。本も少し読んだ。・・・。
明日から、また会社である。部長の入院が長引きそうなので、ショートリリーフ体制からややロングリリーフ体制に切り換えるつもりである。そうでないと、とても体がもたない。執筆に全く手がつかない。
3月26日(月)「雨が上がればまた・・・の風さん」
夕べは1時に就寝。今朝は5時45分起床、6時半出発。まだ、昨日の雨が残っていて、空気は粉っぽくない。元気なうちに仕事をハイピッチでこなしていったが、雨がすっかり上がった午後から、また目と鼻の具合があやしくなってきた。
出張先で知人と長話して、そのまま帰宅した。これはロングリリーフ体制の一環である。
今日の中日新聞夕刊に@@さんの文章が載っていた。ミステリー小説作法を紹介したもので、時代背景とかをきっちりおさえないとリアリティが出ないと言っている。確かにその通りである。彼女はアマチュア時代、山村正夫教室で学んだという話だが、鈴木輝一郎さんによれば、山村教室は飲み会と猥談ばかりで、先生は小説の書き方を教えてくれなかったとのことだから、彼女はどこで基本を身につけたのだろう。栄の文化教室かな?
悪友OmOからメールが届いた。タイトルは「書評で豪遊?」。ナント『算聖伝』の書評を書くという。
風さん
話せば長いですが、色々因果は巡って?東海大学新聞の4月5日号に何とこの私が算聖伝の書評を書くことになりました。
自由な話題を書くコラム欄ですが今回は書評仕立てで、ついでに新入学生にためになるような話をという注文(1000字程度)です。
一応草案を添付しますので、何か記述が間違ってるとかまずい点とかその他何かあれば気楽に指摘してください。28日が最終〆切と言われています。
書評が首尾良く載ったら、銀座か六本木(横浜でもいーけど)でおごりってのはどーかな。
oMo
どうしてどうして、見事なお手並みで、文句無し!ただ、年長者である私に対する尊敬の念に欠けるのが唯一の欠点ではあるか。しかし、だ。書評の原稿料でおごってくれるらしいから、まあ許してやろう。
3月27日(火)「ロングリリーフは続く?・・・の風さん」
正直言って、ピンチである。
夜は体力が残っていないので、未明から起き出して資料読みをしている。作業は遅々として進まないが、精神的には至福の時でもある。そりゃあ会社の仕事の方が慣れているし、多くの優秀な仲間と一緒にしていることなので楽である。し、しかし、この困難な作業に取り組んでいるのは、もう性(さが)というか業(ごう)みたいなものかもしれない。ご先祖様の霊がお命じになられているのではないか、そんな気もする。
出張先から帰宅したら、日曜日に急遽オンライン発注した本が届いていた。早い。
3月29日(木)「うれしい日・・・の風さん」
最寄りの駅を6時24分に出る電車で東京出張である。ここのところ生活リズムが老人モードなので、案外平気である。カバンには文庫本を1冊入れた。
今日の出張も部長の代理講演すなわちリリーフ登板である。頼りになる部下と名古屋駅で合流してひかりに乗り込んだ。私はしゃべるだけで、準備はほとんど部下がしてくれたのである。やはり空模様が怪しいのでケータイで東京の天気を調べたら、朝刊と同じく降雨確率60%だった。月曜から風邪気味が続いていて、湿度が高くても鼻はぐずついている。今朝飲んだ薬が効いてきた。講演資料を復習する気にもならず、文庫本もあまり読み進むことができず、眠りに落ちた。
部下のおかげで講演は無事に終了した(企業の部長クラス約30人を前にして、生産技術開発戦略を紹介するもの)。
ところが、原因不明の裂傷が舌の付け根にできて、喋ったり食べたりすると痛い。実は、講演中も舌がもつれていたのだ。部下と東京駅で分かれて、お決まりの八重洲ブックセンターへ向かった。予報通り雨が降っていて、少し濡れた。
驚くべし! 1階の売り場に『算聖伝』がまだ平積みになっている。棚差しには『円周率を計算した男』も! あ〜あ、何か受賞していたら恩返しができたのに・・・。2階へ上がると、数学書のコーナーには両方とも置いてあった。むむ、執筆がんばらねば・・・(来月も上京するので、売れていないようだったら、自分で買おう)。
目的の本を含めて3冊購入できた。
帰りの車内でも読書に専念したが、読むのが遅い私には、たった1冊の文庫でもてこずるのだ。
帰宅したら加納一朗さんから電話があったという。文芸著作権保護同盟理事で、私の日本文藝家協会への入会をお世話してくださった方である。まもなく電話が鳴り、少しお話したが、先日手紙で問い合わせた件について教えていただいた。文藝家協会入会時には同協会の理事の方の推薦が必要なのだが、はたしてどなたが推薦してくださったのか、である。運が良ければ、私の最も好きな作家で尊敬もしている伊藤桂一先生になる可能性があったのだ。すると、はたしてその通りだった。
伊藤桂一先生の作品はかなり以前から読んでおり、詩集以外はほとんど所有している。時代小説の世話物はもちろん、戦争小説も大好きである。特に文体に惹かれている。平明な文章でありながら、微妙な心理の機微を表現する見事さは、小説家を目指す私には垂涎の的である。
文芸評論家の清水信先生の教室に通っているころに、清水先生と伊藤先生が同県人ということから親しいことを知った。その縁で、一度、四日市(?)で伊藤先生の講演会を拝聴した。サイン本もゲットした。次に、名古屋で現代詩人会の講演会があり、再び伊藤先生の講演を聞く機会に恵まれた。私は楽屋まで足を運び、サインをねだるフリをしながら、「私の作品を読んで批評して下さい」とお願いをした。
あとで、私は自信作(まだ発表の機会には恵まれない)『うどんげの花』(世話物の掌編小説)をお送りしたが、さっそく手厳しい批評が戻ってきた。人間的には極めて優しい方だが、創作に対しては妥協を許さない先生であることを思い知らされた。
その後、歴史文学賞を受賞したり、処女作を出版したり、そして今回の『算聖伝』出版と、機会あるごとに伊藤先生には報告をしていた(もちろん本を送っている)。パーティで姿を見かけたときは、興奮しながら近寄って声をかけ、お名刺を頂戴したりした。伊藤先生は、にやけた変な男に警戒心をいだき、腰が引けておられた(気付いた私は、我慢して立ち去らざるを得なかった)。
という具合に、もう伊藤先生とは10年ほどの細いお付き合い(?)になるだろうか。
加納さんのお話はまだ続き、私を感激させた。
「日本文藝家協会入会では、普通、著書を同時に提出して、それを理事の方たちが見て承認するのですが、今回はその本がなかったにもかかわらず、伊藤桂一さんが私が保証しますと断言されたのですぐ承認されました。異例のことでした」
気まぐれ日記 01年4月へつづく